雑誌「彗星のヴィジョン」雑誌「彗星のヴィジョン」

artem

[アートワーク]
artis opus

二瓶龍彦 詩画集 パラッ・サ パ・ラッサ

  • 柴田乾太郎【考察 其ノ参ハマイケル釈尊】

  • 柴田乾太郎【考察 其ノ弍ハマイケル釈尊】

  • 町田 開【‪bedroom waltz №7 手回しオルゴールのための小曲Ⅱ‬】

  • 柴田乾太郎【考察 其ノ壱ハマイケル釈尊】

  • 柴田乾太郎【CM・ハマイケル釈尊】

  • 柴田乾太郎【夕食・ハマイケル釈尊】

  • 柴田乾太郎【朝食・ハマイケル釈尊】

  • 柴田乾太郎【続続々・ハマイケル釈尊】

  • 町田 開【bedroom waltz №6‬ ‪手回しオルゴールのための小曲】

  • 柴田乾太郎【続々・ハマイケル釈尊】

  • 柴田乾太郎【続・ハマイケル釈尊】

  • 町田 開【bedroom waltz №5 タランテラ・火の車】

  • 町田 開【bedroom waltz №4 ピカレスク・スウィング】

  • 柴田乾太郎【急・ハマイケル釈尊】

  • 柴田乾太郎【破・ハマイケル釈尊】

  • 柴田乾太郎【序・ハマイケル釈尊】

  • 町田 開【bedroom waltz №3 照れた月のワルツ】

  • 町田 開【bedroom waltz №2 雷雨真っ只中のワルツ】

  • Miguel Limac (ボリビア)【Intitulado】

  • 町田 開【bedroom waltz №1】

  • Miguel Limac (ボリビア)【野生】

Story of story 話の話 1  柴田乾太郎

ほん との話
もう11年もの間、550頁からなるその本を傍らに置いているが、70頁から先には進めない。その本の存在こそ、私が此処で燻っている理由を暗に物語っているのだね・・と、私とその本はどこか親友のようであり、悪く言えばナアナアな付き合いの中で互いに納得しあっているようだ。

笑えない話
笑いたいのだと彼女は言い、ひっきりなしにDVDを借りていた。でも実際は物足りず、開けてみると寧ろ泣ける物ばかり。TVのお笑いは笑いも泣きも出来ずイライラするばかり。笑いたいのに笑えず、しかし常に彼女は理想の笑いを求めていた。昔は僕が笑わせた。彼女の笑いのツボを掴んでいた。彼女専属のコメディアンは幸せだった。でもネタは切れる。スランプに陥り僕自身が笑えなくなった。暫くは一切笑わない僕を笑ってくれていたが、直ぐにブームは去った。彼女は僕の元を去って行き、僕は文字どおり笑えなくなった。

流儀の話
プロフェッショナル~仕事の流儀~に出るのが夢だとAは気付いた。すると自分には仕事が無いことにAは気付いた。何か仕事をしなければ番組に出られないとAは気付いた。手に職を持ち、磨きあげるのだ!Aは一瞬熱くなり求人誌を求め走っていた。手当たり次第に電話をかけた。軒並み断られた。ある一社が面接を受けさせてくれる事になった。パートだが仕事は仕事だ。夜勤もありかなりキツイみたいだとAは思った。元々、朝方人間なんだと頭をよぎった。車で送迎もしなければならないのだとAは思った。人は同乗させない主義なんだと頭をよぎった。コミュニケーションが必須だとAは気付いた。自分は真性の引きこもりだったと頭をよぎった。面接の約束は破られた。アマチュア~私事の流儀~了

仕方ない話
 祖父は風呂で隈無く身体を洗ってくれた。爪が剥げ落ちそうな程熱い湯船は恐怖だった。肩まで浸かり100まで数えなければ出しては貰えない。

 親父はよく「お前は桃か何かから産まれて来たのだ」と言いながら、赤塚不二夫のキャラクターを全部描いてみせた。従って幼少期、自分の親父は赤塚不二夫なのだと信じていた。

 弟は物心付く頃から潔癖症で身体中の毛を剃りツルツルにしてイランイランを焚きながら、お経か呪文を唱える。従って眼を開いている彼を見た覚えがない。

 理由はわからないが親父の直ぐ下の弟は丁度、今の私くらいの時に自ら命を絶ったらしい。残ったもう一人の叔父はクリシュナムルティに似た風貌をたたえ普段物静かだが、酔う度に童貞を守り通していると自慢気に語るところは聞くに耐えない。

 僕には彼女がいない。恋をしたくない訳じゃない。私はここでは語り尽くせない我が母や妹や伯母さんに似た巷に溢れる女達の冷やかな目が恐ろしくて仕方がない。

こい話
失恋して消滅するくらい収縮して、また膨張して・・と、飽きもせず何回も繰り返す。収縮状態の方は何時もほとんど変わらず、死ぬほど落ち込んでは正体ない程荒んで何かを破壊する。やがて呪縛から解かれてゆく快感と共に膨張の時が訪れる。膨張の方は少しずつ広がっているようだ。具体的に言うとターゲットの許容範囲が確実に広がるってこと。あと1度振られれば天井は無くなり、あと3度振られれば同性もイケるだろう。5度なら獣もイケるんじゃないだろうか・・はい、聖人の出来上がり。ちっ!その前にこの身が持たないことを望むね。

ロブスターと檸檬の話
祖父は外交官であったため母は幼い頃から海外で過ごした。母の絵画の先生はユーゴスラビア人であり、帰国の際に一枚の自作の油絵を持たせてくれた。幾重にも絵の具が重ねられた暗いトーンの中、テーブルの上にロブスターと檸檬がリアルに描かれ、刹那の前の邂逅を楽しんでいるかの様な静物画だ。一度観れば脳裏に焼き付く力を秘めている。越す度に家の最たる場所にロブスターと檸檬は飾られたらしい。母は父と出会う。父はいわゆる商社マン。社宅での生活、中近東への赴任で転々とする間、ロブスターと檸檬は祖父の家に預けられあたかも安住の地を得たように飾られていた。僕にとってはロブスターと檸檬こそ祖父母との思い出、家そのものであった。祖父母が亡くなった。実家は長男である母の弟が貰い受けた。そしてロブスターと檸檬は母の元に戻ってきた。しかし手狭な父の家に居場所はない。やむを得なく梱包され押し入れに入れられた。やがて父は会社を早期退職し自分の会社を興した。上手く行かず借金が重んだ上にギャンブルにはまった。ある日、梱包が解かれた懐かしい絵が食卓からはみ出していた。親父が嬉しそうに話す「これは凄いぞ!家一軒どころじゃないぞ!」親父は絵について調べて上げていた。ユーゴスラビア大使館にまで問い合わせていた。「ママには内緒だぞ」気味が悪くなった。母に打ち明けた。母は泣いた。妹は憤慨した。こうして父と僕は疎遠になった。

だいじな話
「国民の皆様、走る事は出来るでしょう。走りたいだけ走れば良いのです。しかし覚えておいて下さい。決して逃げられないという事を・・。犬も歩けば・・・いぃえ人も歩けば被爆する日があれば、自爆する日もあるのです。昨今のゲーム、我が国の惨敗の原因は皆様ご存知の通り『自滅』です。そう、ほとんどの敗北は『自滅』なのです。しかし国民の皆様、安心してください。ここから生きて出られる人は誰一人としていないのです!今必要なのは勇気です。皆様一緒に『渡ルベカラズ』とあるこの目の前の橋を渡ろうではありませんか!」

しんじる話
親父が書いた手製の本を見つけた時、嬉しかった。学生時代のもので夏目漱石のパロディだったのを覚えてる。親父がたった一冊だけど小さな出版社から本を出した時も嬉しかった。親父の専門分野、経済に関する本だった。内容は把握出来なかったけどあちこちの本屋を回り、買わずに、親父の本がある事を何度も確認して、自分ごと以上に嬉しく、とても誇らしかった。僕が書く動機はそんなところに在るのかも知れない。親父が物書きなら息子の自慢になると思い込んでいる節がある。息子も居ないのに息子の自慢の親である自分ってのは矛盾だけど、今日も書く。書いている。いつか自分は息子の自慢の親父になれると、信仰にも似た拠り所が僕の今を動かしている。

Story of story 話の話 2  柴田乾太郎

おんがくの話

〜GUITER〜
 何度想像で犯しただろう。とても出来ない様な格好をさせ、休む間もなく打っては白濁した水晶をぶち撒け、潜れる全ての君の場所は隈無く占拠した。一通り犯した後は獣の様に眠り、その夢の中でも君を後ろから触り、ずっと張ったマンマの生々しい俺のお道具を君の格納庫で放し飼い、君がイヤイヤする度に、元に戻せぬほど散らかすんだ。

〜VOICE〜
 僕のアンテナに君ばかりが引っ掛かるようになった。近くの何かをめくる度に君の名前が飛び込んでくる。少々迷惑する事もある。嗚呼~会いたい。会って秘密を打ち明けたり、僕の格好悪さや、僕の目に映る世界の事情を伝えたい。君への思いをゆっくりと詩にしている事や、君の全てを知りたいと言う事や、今直ぐ抱きしめたいと言う気持ちを伝えたい・・・会いたい。でも今更、会いたいと言えるわけない。嗚呼、大切にしょうこんな気持ち。その一方で君の青春を無下に奪って仕舞いたいとも思う。潤いを与えてくれる君に愛と感謝と僕の喉を。

〜SWEET PAIN〜
君のお蔭で千切られた痛さが続いている。越える前に考え過ぎた罰。後半戦は超える。その後、僕は思考を止める。シナリオを破り、衝動に任せる。やりたくなったら何処までも止めない。犯罪者に奉られてもアナーキストに仕立てられても仕方がない。ゲーテもニーチェもパンクだった。

〜STAGE〜
 好きとか、愛してるとは言わない。君と戯れたい。何時も本番、何時も即興、何時も赤裸々、色々試して、一緒に疲れたい。一緒に痺れたい。音譜は要らない。陳腐にさせない。ライトで照らし出された君の蔭だけで僕は活ける/逝ける/往ける。生ける。

〜DESIRE〜
 僕の熱風は嫌悪され。僕の熱波は嘲笑され。僕の情熱は冷笑を浴びせられ。僕の熱弁は徒労に終わる。それでもやりたくてやっている事は唯一これだけで、続けていたら君にかすり、君を嗅ぎ、君を盗み、益々やりたくなった‐やりまくりたくなった。

〜Sealed&Amp〜
 理解をするモノではない。誤解を招くモノでもない。生粋のR&Rの様に理屈じゃない。エルビスの様にピュアで、寧ろ原始的で新しい。先ずは裸になって繋がろう。話しは後の後だ。

〜TONE〜
 君は簡単だと言った。僕には困難に思えた。君は僕を崇高だと言った。僕は買い被られていると感じた。君は私を利用しろと言った。僕は言われる前から君を使っていた事を思い出す。君を汚していた。ゲスじゃない、女性性のアストラル体を持った男と言う音色だ。

〜ESSENCE〜
 放って置くと此方を窺っている。捕まえようとするとすり抜ける。捕まえると形を変える。嫉妬すると育つ。何とも興味深い代物。

〜Bob Dylan〜
 ほら、お目当ての娘にそっぽを向かれたボブ・ディランは味方をしてくれなかった。

〜Hz〜
A = 432Hz
下から上へ
上から下へ

〜Harmonics〜

社交辞令を通せば良い
お望み通り
騙されてくれよう
微笑んでくれよう
そして凡百の
差障りのない野郎で居てくれよう
君のやわらかい拒絶に
ネンガラネンジュウ喪中の気分

僕は与えもしなかった
欲しがりもしなかった
曖昧な態度は君を吊るした侭にした
残酷なのは僕の方
君を反射鏡にして自分の姿を
一番のコメディー映画に見立てたのだ

気付いたなら
この暗室から脱出するのだ
この虚像を振り払うのだ
我が美しい棘を隠すな
我が甘味な毒を解くな

もう自分を許そう
自信を取り戻そう
我が骨を持って
この世を滑走する要領を掴み
我が性質を持って筋肉を増やし
我が熱狂を持ってオモイを包み隠さず
汚染された大地に血で認めよう
オマエガホシイオマエガホシイ
オマエガホシイオマエガホシイ

〜GAME〜
 どうやらこのGAMEは歌を作らないと先に進めない様だ。歌を作らずに進もうとしたが上手く行かなかった。誰のためと言うより先ずは個が進むためだった。

〜NEW SONG〜
 誰にも知られる必要はない。矛盾している様だが、多くに聴かれたくないという思いが何処かで確固としてある。いつもそんな矛盾と闘う事になる。独り、そっと出して来て歌う。何もかも失っても良いように地上で最初で最後の人間になったつもりで、おろしたての歌を歌う。

Story of story 話の話 3  柴田乾太郎

未完成
ここに住んで12年目、未だに隣が家を建てている。越してきて間もなく、作業は始められた。朝8時から夜8時まで作業をしている。相当なピッチのはずなのに、いつブルーのシートが剥がされても良いはずなのに、外観からしてうちの築36年の3階建てマンションの1階分の高さもない。連日、数名の作業員が一台のトラックでやってくる。私道でコンクリートを混ぜ、用具を今にももげそうな蛇口の下で洗い、簡易トイレで用を足す。余りにも日常的になった場面、こちらも忙しく、時間の経過も忘れていたが「普通12年も家を立てることがあるか?」とコンクリートを削る土曜日は午前中の機械音が気になり「ふ」と思った。或る日の夜中、酔っていた事もあり、シートをめくってみた。全面ガラス張りの建物だ。自分が写るばかりで中がよく見えない。顔を付けて覗くと、どうやら床がなくガラスの向こうはすぐ地下になっているようだ。真っ暗でその深さは皆目わからない。内側から誰かに見られているような気になったので止めた。勿論、今日も作業は黙々と続けられている。

超能力者
彼は笑わない。笑った後ですぐ、親しい者が不幸にあうので。

ゆうわく掲示板
あ・ん・ら・く・し の ほー・ほー おしえます

奴の一生
北のほうの生まれ、血液型不明。
少年期
公文式の先生に初恋。
青年期
本の中身より装丁に興味、蒐集。
壮年期
生んだ者に憎まれていた事を知る。
中年期
腹を温めないと眠れない。
のど自慢で鐘2つ。
晩年 焼死。

ブルース
コンサートは始まらない。今夜この酒場で本物のブルースが聞けるという。もうみんな出来上がっている。拍手が起こるとサングラスをした小さな老人があらわれた。一人、手ぶらで。バンドは?ギターは?「私がこれをするワケがわかるか?」老人はつぶやきサングラスを指した。「NO!」みんなが答えた。「知りたいか?」「YES!」みんなが答えた。老人がサングラスを外した途端、視界は暗闇になった。そこに居る全ての者が、これまでに感じた事の無い程の強い怒りを感じ、寒さを感じ、悲しみを感じ・・息が苦しくなった。刺すような痛みが体中で渦となった時、もう、たくさんだ!と誰かが泣き叫んだ。途端に光は戻った。老人はステージから姿を消していた。嗚咽が酒場を満たした。私はその夜以来、歯の奥に何かが挟まったままの感覚に見舞われている。

スーパーマン
クラーク・ケントが着替える電話BOXを次々と破壊してみた。本来の彼に戻る機会を失い、スーパーマンだけにスーパー・ストレスがたまりスーパー・ホームシックにかかったが、帰る里もすでに無く…追い討ちをかけるように携帯電話は普及しほとんど本来の自分を失った彼は、せめて普通の人間にならなければと、正義をあきらめた。

ビン男
渓流で一人、釣りを楽しんでいるとビンに入った男が流れてきた。目を見開き救いを求めているような素振りをするのでビンを拾い上げると、汗を拭いながらニコニコしている。外に貼られ消えかかった意味不明の文字を読み上げると、泣きながら笑っている…と思ったら、引き攣ったようにジタバタしだした。手足バラバラな滑稽な動き、ダンスしているみたいだ。すっかり読み終える頃に男は、口を泡だらけにし、白目を剥き息絶えていた。

ビンのまま埋葬するか、ビンから出して埋葬するか、悩むところだ。

光の子供
光の子供がいる。僕の中に。そいつは無垢でいて、実はいつも僕を守ってくれている。僕が僕であるには、光の子供を見失ってはいけないのだ。

光の子供は昔、家の貧しさ故に自分の命を奉げた。炭を売りに山を降りる父、一つも売れないで戻り、お腹をすかせた子供の目が怖くて部屋に篭り、寝入ってしまった父。斧を研ぐ音がし、夕方に目覚めると、光の子供が父を誘う。自ら砥いだ輝く斧を父の手に握らせ、光の子は静かに庭先の切り株に頭を置いた。夕陽の赤が一面に広がる土間を出て、その美しさに目が眩んだ父は沈黙の中、斧を振り下ろした。

光の子供には何の恐れもない。魂の行いのまま、綺麗なままでいる。僕には見えるのだ。光の子供が僕の内で、切り株に並んで頭を置いた、愛する姉を探す姿が。
(Inspired By柳田国男)

御一行
スケさん(欲)は引き寄せようとする。カクさん(怒)は突き飛ばそうとする。ご隠居(無知)はただただ頷いている。三名様が欲することを減らし、怒らないように、知ろうと務める旅に出た。が、スタート直前に疲労困憊、明日にすることにした。

自由研究
0時0分0秒0.0000000000000000000V秒
手がすべり培地に一滴の「感情」を落とした。

0時0分0秒0.0000000000000000000W秒
それは瞬く間に広がった。その生き物達の瞳孔は開き、背伸びし、肉を纏いはじめた。

0時0分0秒0.0000000000000000000X秒
妙な物を組み立てては崩しの運動を始め、すごい勢いで共食いを始めた。

0時0分0秒0.0000000000000000000Y秒
ほんの数えるほどだが、こっちを向いているのがいる。

0時0分0秒0.0000000000000000000Z秒
「ハックション!」しまった!全てが吹き飛んだ。やり直し。

愛の手
今この瞬間、グッと私の首を絞めあげる両手。薄い記憶に楽しかった日々が走馬灯の様に巡る。躊躇なく彼の体重が私に掛かる。私は理解する。永いこと私は「意識」が無かったことを―。年老いた夫の顔、しかし間違いなく他の何者でもない夫の顔、これまでの夫の苦しさをこの瞬間、私は身を持って計っている・・・がふぉ!ぐるじぃ!!

挟まれて、、
寝ている。象のような大女と細い枝のような女の間で。大女は鼾を掻く度に肥大化して行き、枝女は虫の息だが徐々に徐々に鋼のように硬直して行く。いよいよ大女の体で口をふさがれ、枝女が背中に刺さる。もう少し早く、せめて態勢を変えておけばよかったが、最早もがいても身動きとれず、体液があらゆる所から漏れだすが、どうしようもない。でも希望は捨てない。激痛と躁焦の中、意識がなくなることに期待をかけ・・。

煙突掃除
工場に煙突掃除に行った。工場長さんに好きな煙突から掃除してくれと頼まれた。入り易いこともあり建物から横に突き出ている煙突を選びハイハイの姿勢で真っ暗な奥へ入っていった。奥へ奥へ、上へ上へ行けども、行けども、終わりがなく時間もわからなくなった。終わりがないのではないかと不安になり、精も根も付き果て足場の悪い場所にも関わらず休んで居たところで、工場長の声が、かすれるように微かに聞こえた。「あ~ぁ、違うよ~ここは煙突風(フウ)でしょ~」って涙が出た。

診断結果
具合が悪いので病院に行った。補聴器をあてられ、レントゲンを受けた。目の前で記されるカルテに暗号が並ぶ。家族が呼ばれる。ドアを少し、そ~っと開け、聞き耳を立てる。「このままだと生態系が崩れるので処分」医師が口にした最後の言葉。

垂れ夫
空耳ではない。仕事帰り「垂れています」とすれ違いざまに聞こえた。流石にすれ違いざま別の場所、別の声で三度も言われるとワタクシのことだと思い、声の主を探しては、自分の顔を触り、体中を見渡したがワタクシ的になにも変ったところはない。それからも何度か「垂れています」と言われ続けながら帰宅した。

垂れ切ってしまったワタクシに妻は気付かないらしい。それを証拠に新しい旦那と宜しくやっている。ワタクシがいた頃よりずっと幸せそうだ。

つまんないこと言っていい
サラミに手足をつけて…
サラミーマン なんちって

そして誰も居なくなった。

啓示
連休中、ずーっと寝ころんでぼーっとTVを眺めていたら、写った猿が喋りだした。真っ赤な眼で私を凝視しながら「お前ら以上に良いものは食ってないよ!」「我ら正直な人食い猿はベッドメーキングを欠かさないんだよ!」焦った。跳ねるように起き上がり意味もなくテーブルを動かした。なぜか反省しなければという気になった。敷きっぱなしの蒲団を畳んだ。悲しみを覚えた。なにがって?名前を持っていることが悲しいと感じた。彼等のように正直に生きようと決めた。連休明け会社を辞めた。転職しようと決めた。いや転種することに決めた。

ゼロから
25年ほど国民年金を払い続けた。何かあったときにと、あらゆる保険に入った。コツコツ貯金をし、株なんかも買った。家のローンも払ってる。我が国は乗っ取られた。この国の保険屋も銀行も会社も潰れた。でも乗っ取ってくれたのは親切なC国だった。またゼロから払わせてくれる。

Mトピア
不感症であるほうが上手く生きられると考えた男。全ての神経を抜き表情も失った。男のうわさは広まりマスメディアやバラエティーだの何だのに引っ張りだこ。「痛くないのですか?」巨乳やら電脳アイドルが抓る。「ふーん!!」タレントレスラーに打たれても平気。熱湯風呂も大丈夫。そんなこんなで大忙し、男はもはや人間の原形をとどめていない。生きているのか死んでいるのかさえもわからない。誰からともなく豪華絢爛な祭壇を作り、祀りたてられた肉塊。次々と彼を真似て神経を抜く者が続出。

この国じゃ神経が無いことがトレンド。仕掛けられても仕掛けない国、叩かれても叩かない国。取られても取らない国。落とされても落とさない国。他国からクールと評判になる。結果、平和だったりするが、国家存続の意味もなくなった。チャンチャン♪

Story of story 話の話 4  柴田乾太郎



1:
山の頂上の展望台、腰紐をして夫婦で打ち上げられる。物凄い景観、周辺の山々を眺め、遠い小さな町々も望める。かなりの時間、風を受けながら軌道を描き漂っている。どうやって着地するのか不安になるが、上手い具合に大きな孤を描きながら腰紐が短くなるにつれ誘導され、いつの間にか手にしていた棒高跳びの棒で、フードのついたプラットホームに着陸。

2:
大量の猫、鳩、犬が無人駅のプラットホームに居る。痙攣を起こしている。恐くなり目を瞑る。しばらくして目を開くと、鳩が焦げて数羽転がっている。

3:
やっとのことで高校の寮から卒業。しかし、私の帰るべき祖父祖母の家はもうないという事に気づき、ただただ泣く。家を乗っ取ったおじさん家族をはじめ、誰も彼も犬も猫も鳩も隣人も祖父や祖母の分身だと気づき、ただただ感謝感謝し、鮮やかなパステル・カラーの液体を流し泣く私。

お侍に逢う
忘れた記憶の何処かで、奴が佇む。何か大切なものを落としてしまったような思いつめた顔をして、こちらを凝視している。深刻すぎる眉間が、何かをもの語っている。奴と私との間合いが沈黙を漆黒に変えてゆく。奴の鼓動がはっきりと私を支配しているのがわかる。432Hzで内側から音が聞こえだす雨音のよう。目を逸らそうにも、目を瞑ろうにも、その音量は次第に上がってゆき、鼓動と混じりだす。奴が不意に視界から消えた・・か、と思うと同時に背に痛みが走る。又、やられた。泥の冷たさを頬に受けやっと眠りに落ちる。

お寺で逢う
露店を片付けている初老の女性が、僕を見ている。見つめている。通り過ぎようとすると、僕がさっき護摩木に書いた心願成就の文句を、繰り返し口にしている。驚いて顔を向けると抜けた歯を見せ笑った。尻尾が抜けているワニの剥製を頷きながら僕に手渡す。いちまんえん、いちまんえん。要らないよ!!要らない物は要らないよ!四方に挨拶をし、お寺を退散する事にした。悲しそうだった。左右に揺れながら、去り行く僕を見つめていた。レトロな薬入れなら買ってあげても良かったかなと思った。

その夜の夢・・・。あの初老の女性が嬉々とした表情で僕のお尻の穴から内臓を抜いて綿を詰めた。僕は乾かされ出品されるらしい。寺に持っていかれた。夕暮れ時、小さい穴から見えたのは手で覆いながら護摩木の裏に文字を入れる男・・私だ!?彼女は「・・己の芸術表現で自立生活できます・・」と何度も呟きながら左右に身体を揺らし、おもむろにワニである私を手にした。私は持ち上げられた拍子に、抜けて地面に落ちた尻尾が気になってしかたがない。

死にに・・
死にに行く。地の果てに着くと、そこには高層マンション。その高層階には無数のベランダがあり、ベランダには飛び降りる人と、それに立ち会う人が居る。私のベランダから頭を出すと、丁度1階下のベランダで作業が始まろうとしている。立ち会う人が「ハイ!」と声をかける。すると飛び降りる人が行く。まるで人形の様に見える。私の1階下に居たものが一瞬で小さくなる。地面にぶつかったであろう瞬間「ドン!」と立会人が言う。その声にビクッとした瞬間、下の立会人が私を見上げた。

飛び降りる
先に跳んだ母を追い、母の足がつかめる気で反射的に飛び降りた。気がつくとコンクリートにぶつかっており、どうやら我が頭部は完全崩壊した。最後の意識では走馬灯・・ではなく、瞬間に物凄いスピードでカラーの断片的な映像が流れた。自分の内に電気的なモノの存在を確実に感じ、初めて女子とキスした時に流れた微弱な電流を思い出した。はじめは完全に何が何だかわからなかったが走査線のように見える物凄いカット数。《0,000,000,000,000,000,000,・・・・∞1コマ》のカット繋ぎは到底人間業ではないと言う事から人間で無い何かの存在を確認できた。あぁ、こういった死に方を経験した事あるぞ!と光の速さの1万の二乗倍ほどの速さで悟った。

うんこ場
うんこをする十畳敷きくらいの寝床がある。フトンとフトンの隙間にあるポットン穴に跨って力んでいる友を見つける。どうしても出ないようだ。足場は頼りなく今にも両足元のフトンは穴に向かってずり落ちそうになっている。「助けて;」と情けなく、すまなそうな顔で私を見るので「どうした」と聞くと、両手を伸ばしてくるので、咄嗟に両手の人差し指と親指の間をつまんでやった。便意を催すツボと直感したのと同時に今にもずり落ちそうな体勢の友を引っ張ろうと考えてのことだった。ツボを押しながら、友を引っ張ろうとすればするほど友は切なそうな顔でフトンごと穴に沈んでゆき、いつの間にか尻をまくっていた私の便意が最高潮に達する。

夢蟲
あなたが眠ったら鼻孔から出て行きます。時空を超えて彼方此方、旅に出て拾い集めた、夢の粉をかけてあげるため。どうです?色々な色の楽しい夢が見られるでしょ。

・・・暗溶・・・

そんな私にあなた気づかず、あなた私をひとひねり。

カンセイ
夕陽の街を歩く一人の女性がいた。耀く欄干を伝い、水面に揺れる建物が作る幾何学的な模様。ビルジングとビルジングの合間に出来る黄金の道を彼女が創り、金色のスカートを揺らしてゆっくりゆっくり歩く、音のしない完璧な音楽。完全な歩幅で僕にはないカンセイ。あぁ、僕はこうして女性という生物にずっとずっと憧れていたのだ。覗き込むと惹き込まれそこに居ないはずの僕は彼女と歩いていた。明るい閑静、内なる歓声、慣性の無い、永久の完成。

一枚の絵画の前で動けなくなった僕の肩にそっと置かれる掌。

Story of story 話の話 5  柴田乾太郎

コーヒーショップ

【同胞1】
外は雪。ワイシャツは白。百畳敷きのコーヒーショップで、いっせいに黒水すする。雪が汚れた町を一掃するのを眺め、俺たちサラリーマンは何かを売って来てはここへ立ち寄る。売れなくても寄る。ガソリンは満タンだ。直に化けの皮を剥がす街を想像し、長居する。

【BGM~ジャズ~】
地獄の内包 コメディーは クール
器用貧乏 体質改善につき ドープ
一切のト書きは 排除する ルール
即興の見積りは 誤操作で ループ
心酔証明 死人の口づけは ソール
狂気を 葬る スタイルの ツール

【プアー・エルビス】
ノーモア ドーナッツツツツツ
ノーモア ドーナッツツツツツ
オオオオ エルビス アライブ
オオオオ エルビス デッド
  ノーモア ドーナッツツツツツ
ラブミー ドーナッツツツツツ
ノーモア エルビス
ラブミー ファット
  中野区在住常連エルビス似の男を見ているだけで、腹八分になってしまった。

【白髪紳士】
アルミニウムの杖をつき、付添い人も無く、高いイスに上手く座れず、立ったまますする。喪服を着た白く乾いた肌、赤ら顔。明らかにニューフェース。脇を通る店員の娘の太ももにおどおどする。それは血を吹きそうに新鮮だもの。手の震えを無理に止めようとしないでください。キョロキョロしないでください。あなたの全人生でもって、堂々とそいつをすすってください。

【土偶たち】
はじける化学反応、変な髪形の小さな原子爆弾集団、水を飲むわりに小便に行かない。絶対、身体に何かを飼っている。育てている。皆、同じ形をしている。無敵の要塞の風情。10m離れて眺める分にはアトラクションみたいでかわいいが、近づくとひとたまりも無い、俺なんぞそこらの、土産小屋のてかてかの置物だ。母にはくれぐれも群れるなと忠告したが、すでに時遅し・・。

【同胞2】
さぼって、さぼって、むさぼって。それでも雪の結晶の一片を成し、気付かぬうちに、地面でとける。

いぼ
子供の頃、疣があった。劣等性の具現であった。長いソックスでそいつがある膝小僧を隠した。女子にばれたら死ぬと決めていた。いろいろな薬品を塗りたくった。風呂上りで柔らかくなったそいつをほじくると、翌朝は硬い花が咲いているようになった。僕は祈った「この醜いものと永遠に別れられますように」と。

自分がクラスから2番目にチビだと気付いたときか、僕の習字に連中が爆笑した時か、カマってやれない間にそいつは姿を消していた。

昨夜、何を食べたかも忘れてしまう大人になった僕は、時々湯船で膝に手を当ててみる。

ホーチミンの夜
アスファルトの川を上手く渡れなかったのは、運が悪いからだと片付ける。葬式代がどこからか出れば御の字だと言う。誇りなど微塵もない、余裕など知りようがない。売る気のない売り子は国営の売店にだけ安住する。路上に出ればエネルギーにむせる。眼前に生きなければならないという現実だけが俄然と立ちはだかる。それには全てを食わなければならない、貪らなければならない。嘗て僕らがそうだったように、乞う、乞う、乞う、ただただ乞う。ホルマリン漬けの胎児が笑みを浮かべ、行くところ行くところでモノクロームのベトナム戦争がカタコトノ日本語で「ドンナキガスル」と問う。ビッコの男がメクラのギター弾きを引き摺りながら物乞いをし、両足を無くした男がC3POの物真似をしている。路肩で微動だにせず干からびている老婆は、脇にあるもう必要の無くなった器に入れられる物に手を伸ばした形で逝く。ここに立たされる必然を前にキツイ目眩が襲う。寺院の前では片足の男に足を引掛けられた。光を観に来ただけでは済まなかった。

僕らにはバスが待つ、全てから目をそらさなければ立っていられないなら、早く快適なベッドで目を瞑るがいい。

蛸杉
高尾山中にある大きな蛸杉の剥き出しの根に開いた穴に耳をあててみた。はじめ蛸杉はもの凄い圧力で僕の鼓膜を押した。まるで高いところに急に登った時の感覚にも似ている。人通りも少ない時間になり最終下りのケーブル・カーの時間も過ぎ、暗くなってまでもしつこく耳をあてているので蛸杉も降参したのか、僕を受け入れ優しい絶対的な無音で僕の全体を包んでくれているようになった。心地良い瞑想の時間。僕は寒さも気にならなかったことを、耳を離すまで忘れていた。やがて電灯の一つもない真っ暗な山道を、足場を探りながら下った。その途中、全身にあの鼓膜に感じた圧力を感じた。金縛りにあったように身動きが取れない。そこは木々の力が満ち満ちた聖なる場所だと気付いた「おい!何者だ」と問われている気がした。恐れず感謝を捧げるとまたあの無限にも感じられる温もりが戻ってきた。

或る男の休日
便所でボルヘスを読んでいた。顔に三日型の傷のある戦争の犠牲者、自分を救った人を売る男の短い話。

外から縦笛で吹くたどたどしい『マイ・ウエィ』が聴こえてきた。時々、変な間違え方をするのが気になって本を読めなくなった。どんな奴が吹いているのか見てやろうと思い、音のする北の窓の網戸を開ける。おかっぱで目つきの悪い子が一点を凝視し吹いているリンゴ・スターをそのまま小さくしたような子だ。目が合い戦慄を覚え、窓を閉める。

机にあった。荻窪のサウナ温泉風施設『荼毘の湯』のパンフレットを手にとる。半身浴姿の二人の女性が異様に色っぽく写っていた事に驚かされる。「いらっしゃい」と私を導いている。出かけることにする。

2500円で『荼毘の湯』入館。裸になりサウナに向かう。韓国式垢すりのおばさんと目が合う。水色の半ズボン、年齢不詳、鼻筋通り過ぎ絶対天然ではない。すれ違いざまに彼女の空気を切るような大臀筋に見入ってしまう。

すっかり遅くなり、アパートの近く、オカズの何も置いていない弁当屋しか開いて居ない。疲れきったパート主婦、並べてある皿には残りカスだけ。のり弁スペシャルを注文。揚げる音だけが寂しく響きわたる店内。

明日は実家に帰った女房に謝りに行こう。

石碑郡
掘られた文字がすっかり削れ判読不明な石碑郡が物語っていた。此処が100年も経たぬ前は風光明媚な場所であった事を。嘗ては砂浜があり、内房の絶景だったに違いない。今は聳える煙突郡、石碑群の立つ小高い丘からはドブ色の川、工場排水の流れが見える。石碑郡はこうなる事を予測していたのではないかと‘ふ’と感じた。そう感じた瞬間に石碑郡から一斉に見られた気がした。「お前ら人間がいなくなった後も、わしらは存在しつづけるのだ」確かにそれらは、永遠に存在しつづけるだろう風情を備えている。

Story of story 話の話 6  柴田乾太郎

処理場

東京郊外H駅朝、タクシー乗り場、女子大生集団の後ろに着く。首にタオル、作業着に安全靴、女子に警戒されながら自分の順番が来る。
「学生が化粧臭いですね・・学校そんなに遠くにあるんですか?」
「800メーター・・」
「・・・」
運ちゃんと会話は続かない。いつに無く長く感じる下水処理場への道。疲れきった中年男が運する車は要領悪く、しょっちゅう赤信号につかまる。息がつまる。窓を開ける。糞尿の仄かな臭気、今日も仕事が始まってしまう。車内に立ちこめる憂鬱。車が処理場のゲートを潜り管理塔前に止まると同時にメーターがカチッと上る。

ロビーに入ると、山さんは既に腕を組み待っていた。遅いよ、と言うかわりに首に巻いたタオルをキュッキュッと搾る。元請けの山さんは大企業の人にかかわらず気さくな人だ。去年、青森から単身赴任で東京に出た。小学校高学年の優秀な娘が自慢。特別授業に山さんは学校から頼まれ下水道の仕組みを講義したらしい。奥さんは中学時代の同級生。身体の不自由な母一人、弟さんは事故で既に亡くなり兄弟は居ない。10年前、今の会社に転職したという。元は土建屋、ユンボ(堀削用建設機械)の免許も持っている。「車で来たことは会社の者には絶対に内緒にしてください」
山さんの会社は異常なくらい社員の運転で現場に行かせることを嫌う。一時期死亡事故も含む事故が頻発した為だ。土日休日の出勤も殆ど許されていない。幾らタクシー代が掛かっても良いという。うちの会社とは全てが違う。車で現場に来たことがばれると始末書なので、来るたびに決まって公言しないよう念を押される。山さんの会社は生物反応で汚水を再生水にする装置をこの処理場に入れている。暗く巨大なプラント内に入る。生暖かい空気、強い糞尿の匂いがマスクを軽く越えて鼻を突く。手探りで場内の照明をつける。天上から垂れる滴、迫る蚊の大群、クモの巣をよけながら計器類の数値を点検し、糞尿が流入してくる口を開け採取、曝気層を開け採取、最終沈殿地に着くと透視度をチェックし「りん」と「窒素」の数値を確認する。
「見たところは綺麗なのにP(りん)が落ちないんだよねー」
私はとりあえずうなずく。一連の作業が朝昼晩の三回繰り返される。過去に事故があり、危険があるので二人一組で場内を回りなさいという通達が山さんの会社と処理場側からある。そもそも当初の設計で算出したPの数値が一桁違うことで山さんはこの現場から離れられないでいる。現場から不安がられ、会社からはせっつかれ実際は手詰まりの状態だ。うちは山さんの会社が痺れを切らし外注した理化学分析屋という立場だが、もっぱら分析は処理場内が持つ分析施設で行うので、ここに於いて記録や採水といった業務の仕事が主だ。ここももう3週間になる。山さんは6ヶ月になる。

仕事を覚え、山さんとのコンビネーションも良くなってゆくと、午前中の作業がスムーズに行き昼食の時間がたっぷり取れるようになった。そうするとプラントから少し離れていても山さんは美味しい店に連れて行ってくれる。山さんは釣った魚を自分で捌く事も出来る。青森の実家ではそれが当たり前だったそうだ。相当のグルメで昼飯に妥協はない。お金をかける。会社からの接待の予算もなく、割勘定ではあるが安月給の身には少し堪える。が、これも仕事の内、割り切っている。この日は静岡に行こう、と山さんが突然言うので、さすがにそこまでの時間があるわけ無いですよ!とまともに返したが、何のことは無い少し離れた街道沿いに、この時期しか食せないという、桜海老のかき揚げうどんのことだった。サクサクで海老の存在感が際立つ。新鮮な証拠だ。初めて桜海老が美味い物だと開眼させてくれた一品である。しかし食い過ぎた。昨日も脂っこかった事を思い出す。宮崎に連れて行かれた。そう、そう、とんかつ定食であったがこれが又、肉厚の黒豚でありサクサク・・って二人の中年の太り方はあまり宜しいとはいえない。分かっているが止められない。

満腹で又、午後のプラントへ戻る。警備員に目で挨拶し、車は処理場に滑り込む。匂いに馴染めず暗い気分になり私は静かにマスクをした。

戻るとロビーに山さんの上司が待っていた。この日の午後急遽、都の中央職員をプラント内に案内、現在の整備具合、これからの計画等を説明するようにという指示が山さんに下された。突然の出来事に緊張感が漂う。明らかに常時の彼と違う面持ち。田舎者の風情は無くなりいささか冷たく尖った、見知らぬ男の横顔だ。これが会社での顔なのだろうか。料理の出来ない同郷の山さんの奥さんは、障害のある山さんの母親の面倒をとても看られないと言い、母を連れ田舎から出てきた。今は一人住まいに近い介護施設に入れ、毎晩面会に行っている。休みの日は手料理で母をもてなすらしい。大都会に出て迷うことや、多くの屈辱も受けてきただろう。自分の柄に合うことでは無いと知りつつも、やらなければならない男の顔だ。このプラントは山さんの手がけた第一号だ。山さんの命がかかっている。メインの濾過装置に彼は無意識に向かって『この子』と呼んでいる。私は願う。『この子』が彼の上司に、お偉いさんに、住民達に、この国の全ての民に、全世界に、全宇宙に認められることを。これと言って何も助けにならない。山さんの成功を祈ることしか出来ない。

あの日から、プラントには行っていない。あの日の夕方から用済みとなったからだ。契約は一方的に・・いや、契約金は額面通り山さんの会社からきちんと支払われプラントと一切の関係が無くなった。下請けの会社の一社員である身にはそれ以上の情報は伝わって来ない。守秘義務契約も交わしてあり、それ以上聞くわけにも行かない。『あの子』に何か重大な欠陥が見つかったのかもしれない。下見の結果、意見の交換が行われ、実験の方向が大きく変えられたのかもしれない。気になっていて一週間後に山さんの携帯電話にかけたが繋がらなくなっていた。他の仕事で忙しく一年近くが過ぎ、すっかり山さんの面影も薄くなりかけたころ、山さんの会社から都内にある別プラントの管理業務の依頼が来た。前回のように下水ではなく、上水に関わる業務であり、手続きが厳重であり、写真つきの証明書や会社のお役所認証資格全般の資料提出、検便の義務まであった。部署は違えども山さんの会社の今回の担当者にその消息を訊くことを決めていた。

山さんは亡くなっていた。

最後の日から直ぐに大型連休に入った。休みが明けても山さんは会社に出勤して来なかったらしい。山さんには引継ぎの仕事が残っていた。どうやら設計そのものに欠陥があり、かといって数億かけているプロジェクトを断念するわけにも行かず。別のプラントを成功させていた同僚が後を引き継ぐことに決定していた。会社からの再三の呼び出しがあった末に、山さんは現場に現れた。その日に《事件》は起こった。山さんは抜け殻のようだったという。案内の為、交代の同僚を連れ立ってプラントに入ると、点検と採取の為、最初に開ける足元の鉄の扉、糞尿が浮かびつつ流れの見える流入口、体がやっと通る大きさの口からロープの付いた採水ビンを垂らすと同時に、吸い込まれるように頭から落ちたという。それを聞き、轟音のする闇を、無を感じた。山さんは浮かんでこなかったという。処理場プラント内の全てを止め一週間後、沈殿槽の沈殿汚物の中から山さんは発見されたという。最愛のマシーンと一心同体になった山さん。家族を残して逝った山さん。可笑しいかも知れないけど英雄のようだと思えた。山さんが永遠になってしまった。『あの子』は今、引き継がれた担当者により稼働しているらしい。

昼食は何にしよう?ヘルメットを被りながら、私は無機質なプラントに入る。

Story of story 話の話 7  柴田乾太郎

ぬいぐるみの木
幼い頃そこは幼稚園だと教えられていた。その庭にある2階建ての小さな真っ赤な小屋は、おとぎの国から持ってきたようにかわいらしい建物だったが、先生に手をひかれて嫌がる子が上がっていったとか、夜になると微かな悲鳴が聞こえたとか、そこはお仕置き部屋という噂もあった。

真っ赤な小屋の隣にはぬいぐるみの木があって、他の土地に移っていった子のぬいぐるみが、そこにかけられるようになってそう呼ばれていた。それはまるで、たわわに実った果実のように美味しそうで、何度も柵越しに手を伸ばした。2つ3つ気に入ったぬいぐるみには名前を付けた。その庭の不思議が幼い僕の目に魅力的に映ったのだろう。小学校に上がる前、親に自分もそこに入れてくれと駄々をこねたことがあったそうだ。そこが孤児院だと知るのにそれからそう時間はかからなかった。

大人になった今。街灯も殆どない東京はずれの実家に戻る雨の道すがら。閉鎖された孤児院の前を通る。すすり泣きが聞こえる。おびただしい数の塊が重たく垂れ下がりこちらを見ている。

風に吹かれた
誰かさんは、嘘つきやペテン師や手品師や超能力者でもない。ただある原則を若いうちに理解してしまったものだから、それを使ってハーモニカとギターで歌った。それから皆が便利な乗り物だとこぞって使いだした。私は人混みが苦手で、絵に描いたように乗り遅れた。乗りたい気持ちだけが行き場を無くし、しばし心が自分から離れ呆然と停車場に佇んでいた。徒歩で行けないことはないと知ったのであらゆる風を受ける機会には恵まれた。

答えは風の中にあると聞いて信じて裸で立っていたら風邪をひいて何百日も寝込んでしまった。

答えは風の中にあると聞いて掴んでみたら、自分のおならを掴んでしまって、世の中の全てが胡散臭く感じたこともあった。

別に「風」じゃなくても良いんじゃないかと土・水・油・草・石・鉄・虫・刺身・・・あらゆるものの裏表をあらゆる道具を用いて調べた。もう息をするのも面倒になった瞬間に自分が呼吸していることが妙に凄いことで、あーこれこそ奇跡だねーなんて思えて涙なんぞ浮かべたりして。涙が周りにバレないようにサングラスして。結局答えは風の中でも掴めたが、何を問うたのか忘れるほど老いちゃって。かつて私が乗りたくて乗れなかった乗物に乗って戻ってきたと言う奴が、それを思い出すにはリハビリが必要だと誰かさんが得意だった悟った眉と顔そっくりで言うものだから私は頷く。一体何のリハビリだか分からない同士が病床で頭を並べながらだから笑いが止まらない。

独り暮らしの猫
独り暮らしの私のベランダに猫が来るようになった。ペット禁止のマンションなのに隣人の姉妹が飼っているのだろう。腹筋運動しているとき、瞑想しているとき、何の目的もなく飲みながらTVを眺めているとき、振り向くと曇りガラスの向こうに影があり10cm開けると逃げ、再び戻っては微動だにせず私をじっと見る。馴れて可愛くなってしまうのは嫌なのでかまうことはしない。少しでも動くと逃げる。外で見かけたことのない猫だ。スフィンクスを縦に引っ張ったような佇まい。耳を思いっきり天に向けて尖がらせ、真黒に輝く大きな瞳。ほとんど皮膚のような茶色い毛は寧ろ金色に近く光の加減でめくるめく変化する。アニメに出てくるみたいにタキシードでも着せたらざぞ似合いそうだ。無言の交流は1年ほどになった。退屈しのぎには丁度良かった。天気の日はベランダを開けて念じるとやってくるようになった。ただ見つめあう。何を考えているか知りたくなることもあり、動物はイメージで感情を捉えると何処かで聞いたことがあったので右脳を意識して試すこともあったが全くダメで・・。

最近、気掛かりなことがある。隣人は栄養を与えているのだろうか、明らかに痩せ細った。眼だけが異様に大きく、映画や写真で知る収容所に入れられたユダヤ人のようだ。タキシードは似合わない。見かねて食べ物を与えようとするが逃げる。置いても一切口にした形跡はない。初めて隣人のべランダを確認した。人の気配がない。三か月に引っ越していたことを知った。

ある夜、胸にキューっと抓られるような痛みが走った。寝不足と暴飲が祟ったか・・。平衡感覚が無くなり倒れた。薄れる意識の中、伸ばされた手(足?)がかすかに見えた。藁をも掴む気持ちで手を伸ばす。と、やっぱり逃げた。

初恋と祈り
親父同士が同じ商社に勤めていたものだから、三太は同じ社宅に住んでいた。同じクラスだったけど小1の途中から「あすなろ」に移った。「あすなろ」と呼ばれる学級は知的障害がある子の教室だ。落ち着きが無く、すぐ発狂した。女子はかなり被害を被っていたようだ。三太のお姉さんは先に「あすなろ」にいた。社宅から学校までは高い網の柵がめぐらされた異臭のする4m程の川幅のドブ川に沿って300m歩く。姉弟にとっては地獄の道程だったに違いない。「あすなろ」は恰好のいじめの対象だった。同じ社宅だった為に自分はクラスメイトから「三太の親友」とからかわれた。違うなら証拠を見せろと言われた。雨の予報のある朝の登校時、いつものドブ川沿い、後ろから傘の柄で三太の足をひっかけた。皆、喜んだ。三太と友達じゃないことが証明された。三太はコンクリートに顔を打ったけど発狂しなかったし泣かなかった。姉が三太を起こしながら無言で私を凝視した。ある日、社宅の駐車場で遊んでいると三太のお母さんが通りすがりに「こんにちは」と声をかけた。私は「アスナロ」と返した。途端にお母さんは顔を赤らめて私を叱咤した。何を言われたか覚えていない・・覚えているのは彼女の流した涙。美しい涙。その日を境に私は変わっていった。涙は魔法だった。私は「ごめんね」を言いに行った。三太は何のことか理解していない様子だった。三太のお母さんはとても嬉しそうな顔をしていた。社宅の中で、姉弟と遊ぶようになった。知るほど姉弟に魅かれていった。二人は片言だったけど、言葉は要らなかった。ほとんど体を動かした遊びだ。追っかけたり追っかけられたり。やがて姉弟の部屋にも招かれた。僕の部屋とも友達の部屋とも違った。やわらかい色の壁紙、優しい雰囲気の部屋。今、思うと社宅の一室とは思えない。親御さんの愛情がわかる。着せ替え人形や怪獣のオモチャをぶつけ合って遊んだ。最後は決まって手足を捥いでバラバラにして大笑いした。友達になった。姉弟と遊んでいることがバレて「アスナロ」「三太の親友」と呼ばれるようになった。「そうだよ」と答えた。やがて皆、何も言わなくなった。

小3になった。転勤が決まり社宅を出る日が来た。転校より姉弟との別れがつらかった。三太は親友だし。お姉さんを好きになってしまっていた。初恋だ。そして生まれてはじめて祈ったように思う。どうか二人を誰もいじめませんようにと。

内観装置
「私が開発しました作品のひとつでスクリーンと映写機が同体になった内観装置です。任意のサイズで沈黙に置くと見る人の思考が投影されます。解釈は自由になっております。入り口であり出口でもあります。呼気と吸気が出会う場所でもあります。有限と無限の握手が映っております。サムシング・グレートであります。ほら映りました。これが貴方の、え!これが金色に見えるとオッシャル、そこの貴方・・・カラスが憑依しているようですな」

歩く暗黒
その人にプロジェクトを任せれば完璧だ。天文学的な知識、神々しい技術、人材をしかるべき所に配置し、寸分の狂いもなく全てのプロジェクトを成功に導いた。

ただ、彼は「音楽」を感じることがない。「音楽」を聞く耳も心も持ち合わせていない。

人々に抱かせ、人々を確実に動かしていたのは「恐怖」だった。

そして今日も彼のプロジェクトは遂行され、天使は拠り所をなくす。

金曜日の朝
中央線上り朝のラッシュは変わらない。やたらに背の高い男の脇が自分の鼻元に来る。首から上を動かすのがやっとだ。視線が誰とも合わないところを探す。「新しいことに挑戦しましょう。困難に思えるようでも取りかかってしまえば楽しんでいるうちに終わらせています」朝の星座占いが悪くないのことを思い出すとテンションが少し回復する。新宿で空いてくると神田で降りる私は吊皮を確保する。四谷を過ぎるあたりの電車が短いトンネルに入ると窓に映る隣の女性に気付く。女性は私と同じようにイヤホーンをして目を瞑っていた。軽い素材の清潔な白い服、石鹸の香りがしそうな美しい女性だ。軽く胸がときめく。僕のイヤホーンからジャクソン5『I WANT YOU BACK』が流れ始める。エェ!!涙が溢れてきた。悲しいわけじゃない。ちびマイケルの声が琴線に触れるのも確かだが、梅雨期の貴重な晴れ間、車窓から見える全てが美しく輝いていたのだ。欲しいモノをプレゼントされたように嬉しかった。あぁ・・見ず知らずの人に声を掛けて「友達になってください」と言いたい。どうしてそれが出来ないかが不思議なくらいの気分だ。仕事なんか放りだして、そう今、今、今、隣にいる女性に声をかけて、一体どんなこれまでを過ごしてきたのか、貴女はこの電車に乗って何処に行き、何をする人なのか・・全てを余すことなく聞きたい気分だった。アイウオンチュバ♪アイウオンチュバ♪天使達よ、リピートをやめるな!永遠に続けろ!所構わず燃え立ち猛る我が血潮!あぁ涙が頬を伝ったその時、電車が暗闇に入る・・窓に映る大きな瞳、隣の女性と目がアウゥゥ〜!

※本編はマイケル・ジャクソンが亡くなる一週間前の金曜日に記しました。マイケルありがとう。

アマチュアの天才
本当に彼の才能には恐れ入った。僕は嫉妬で身悶えたものだ。特にアレンジメント、多重録音のアイディアと実践、楽器やエフェクトの選び方、本当にじっくり愛情をかけて作った作品で、内省的だがこちらに想像させてくれる楽しみや遊びがちゃんと仕掛けてある所が憎い。物凄い量の音楽を聴いてきたのだろう。色々なテクニックを習得してきたのだろう。お金を多少かけ、スタジオのクオリティーでそのアルバムが作れたら驚愕の出来だったと思う。完全宅録だがプロの仕事だ。個人的に音楽的刺激を受ける度合いとしたら巷の作品を凌駕している。ただ売ることだけが目的の市場では彼の「詞」と「ヴォーカル」が惜しいといわれるところだろう。でもそんなのは関係ない。鑑賞品として充分成立している。僕と同じように感じる人は沢山いると確信している。彼のコンセプトとは一言でアトモスフェア(雰囲気)だ。全編に於いて「ふわ~っ」としている。楽曲はファンクでもロックでも力が抜け、つかみどころがない、主張を避ける。僕らの世代・・と言ってしまえば否定できないが、作品発表当時は確か仕事をしておらず、保険外交員として結構な腕の奥さんに食べさせてもらっていたはずだ。奥さんは彼の才能にゾッコン。「音楽だけをやっていればいい」と言われていると彼の口から聞いた。確かに作品からはそんな感じが「焦り」と言うよりも「高等遊民」的な余裕として伝わってきた・・だから羨ましく思ったのかな~?

子供が出来て何処か田舎へ行ってしまってから彼の消息は分からない。音楽は止めないだろうから、どんなふうに彼の音楽が変わったか非常に気になるところだ。

彼の音源を引っ越しのごたごたで無くしてしまったのがもう10年以上も前。それでも嘗ての印象だけがどんどん膨らんで僕の中でムクムクと育っている。やっぱり凄い音楽家なのだよ!彼は。で、僕は勿論未だに音楽を止められない。数パーセントは彼の所為で中途半端な作品が作れない頭・心・体・魂になってしまった。欲望は果てしないが彼のように器用に明晰に逆立ちしてもなれないし、多重録音も性格に合わないから滅多にやらない、テクニック志向もない。逆に彼はその才能を惜しみなく僕に見せてくれたことで、僕と言う個性に(嫉妬を超えて)僕が出来ること、僕にしか上手く出来ないことをある時期に気付かせてくれたのかも知れないな。偉大なるアマチュアに敬礼。

~あとがき~
ノートの隅に書き、全く違う言葉で書き、いつでもアレンジできるように、色々なところに断片を落としておいた。それがこの作品集である。私たちの実人生のように数多の分岐点がお話のキャラクターたちを取り囲む時、僕はある方向にその背中を少し押してやるだけの役割。僕が明るい方に押したって、彼らは自分の意志で闇に向かうし、闇のほうに押したって、明るい方に向かうものも居る。そうすることでたくさんの命に気付かされる機会を僕は頂いている。天邪鬼ばかりだが、彼等も愛と死を僕と一緒になって考えている同志である。一見何の関係もなく見えるこれらの各お話のキャラクターも何処かで交差していることを感じていただけると思う。あらゆる物質が書けと言ってくれる。そのお蔭で、それが私の天性なのだと信じられるようになった。何のことはない、ちゃんと見る作業の中に物語はいつでも活き活きと生息している。完結なんて端から求めてはいない。時空と自我を超えられたら、それが僕の目指す音楽であり文学である。全てである。

柴田 乾太郎 KENTARO SHIBATA

3分55秒  緒 真坂

 ぼくの通学には音楽が切り離せない。美しい音楽が一瞬、この退屈で、陰惨な世界を忘れさせてくれるからである。
 ぼくは平凡な男子高校生である。からだも心も。いまのところは。そんなふうに書くのは、そうじゃないクラスメイトが一人いるからだ。彼女(男)には、世界がどう映っているのだろうか。
 ぼくには、彼女がいない。彼女ができることが、世界を輝かせることだと信じている。とりあえず、暫定的に。彼女がいたことがないので、実感があるわけではないのだけれど。
 その駅から駅までは、Perfumeの「Spending all my time」だった。3分55秒。ぼくが大好きな曲である。
 朝の通学時、ガタンと鈍い音がして床が揺れ、ぼくの至福な時間が遮られた。人身事故である。よくあることだ。
 その日の午後、駅のホームから飛び込んだのは、ぼくの公立高校の教師だった。

 この世界は、平坦だが、不安定で、どこかでつながっているのだとぼくは思う。

断腸呈日上々(だんちょうていにちじょうじょう) 柴田乾太郎

即興連作小説
ズレながらも強かに現代に生きる
浮浪中年の心象風景を
片言のニッポン語で描く
※永井荷風の日記『断腸亭日乗』とは関係ありません

会社を辞めて・・

平成21年10月31日付で12年勤めた会社を辞めた。合わせて12年住んだ東京中野から横浜大倉山に移った。本を17箱程売り,レコード,CDも数百枚単位で手放した。ゲームセンターに残した数万のコインも、界隈でしか使えない店の無数のサービス券も一緒に。何の感慨もない。シンプルに成って行く。いよいよ宙を浮く。内観と瞑想の日々。無職なのに堂々としている。友人への感謝、有り難みが深まる。周りのお陰でしか生きてこなかった自分に気づく。涙ばかり流している。ちょっとしたことで笑ってしまう。思春期かボキは!これからの人生は懸命にお返ししなければいけない。遊びながら、遊びながら。そして同日、悲しい事に全寮制男子高校時代の同級、稲葉卓君が亡くなった。心不全だったという。忙しない間を縫って告別式に行く。人生半ば。棺の中の顔を見て涙が出た。自分の新しい出発と輝かしい未来を彼に誓う。「応援するよ」穏やかな顔の稲葉君に言われた気がした。久しぶりに会った仲間たちにも言われた。もっと密接に濃厚に僕ら生きて行こう。生を楽しみ多いに生きて行こう。

家に居ると、牛乳、新聞、清浄器いろいろな勧誘が来る。大倉山は案外ソフトで助かる。そういえば何時からか電話が鳴らないことに気づいた。と思ったら電話の配線を付け間違えていた。付け替えて1分もしないうちにFさんから電話があった。なんか懐かしい感じで嬉しかった。

で、気が付いた様に友達が作った劇場に遊びにいった。相方の女性が肥ったと思ったら、妊娠5カ月。何となく二人の間、険悪な感じ・・大変なのだろう。オープンの時間に行ったら表は植木が倒れ、吹き溜まりが出来ていて雑然としていた。そんな様子から大丈夫か?と思った。幸せを願うと同時に愛妻ミックに感謝するボキがいる。

Fさんから貰ったMacくんを触っていると一日があっという間だ。自分で所有するのは初めてだ。いろいろ勉強になる。この歳になって物事の手順を踏む大切さを学 んでいるわけだが、Macくんを直ぐに怒らせてしまう・・その度に、祈るように手ばかり合わしている。雨戸を開けずに集中しだすと昼も夜も無い。

地方に住む幼馴染みが長い間私と連絡が取れなかったようで心配して電話をかけてきた。なんで携帯がわかったのだろう?所在を前の会社に聞いたかも知れないな・・
ヤッコさん、大きい新聞社の御曹司だから一肌脱いでくれないかな・・何の一肌だかわかんないけど。

1ヶ月以上が経過した。前の会社から退職証明書が来ない。失業手当が貰えないじゃないか!昨日、辞めた会社から郵パックで届いたと思ったらボキの名が書かれた名刺じゃないか!そういえば東京に緊急で何かあったら嘱託で頼むと社長に言われた。背広をクリーニングに出しおかなきゃならないかな・・。完全隠居を宣言したのに中途半端に、後ろ髪を掴まれてるみたいで嫌だな。

瞑想し、声を出し、軽い運動して風呂に入る。上がる際に冷水を浴びると高校生の頃に読んだA・シリトーの小説の主人公の様に地上に最初に降り立った人間のような気になる。

MJの映画を見に行った。人類が永年「見させられてきた夢」から覚まさせてくれる。彼は自分が何者だか、そして自身のここでの役割を熟知していた。いつでもあなたは何が大切だか思い出させてくれる。本当に望む事に向かわせる。勇気を与えてくれる。彼は死んで無い。愛と感謝をMJに。

Fさん夫婦とペルシャ料理。チェロキャバやシシキャバブや酸っぱいニンニクのヨーグルトが食べたくて行く。高円寺、阿佐ヶ谷にもあるがこの日は日暮里にあり予約なしでは入れない一番盛況な店に行く。ここは強制的に踊らされるので極力避けているが、Fさん夫婦なら大丈夫だと勝手に判断し連行。みんなで踊って、ミックに至っては店恒例のじゃんけん大会で最後まで生き残りベリーダンスのDVDをゲットした。騒ぐと小腹が空き、結局、居酒屋に行った。で、終電でなんとか帰宅。いいねー。友と踊って食べて笑って・・人生って感じだ。

良く寝た。昨夜は夕飯を食い直ぐ寝た。起きたら午後2時、正味19時間寝た。脳溶けたがなんか嬉しい。奴隷の夢から覚める夢を見たから。行く場所がわかっていて、やるべき事がわかっていれば無駄も無理もムラも自然当然必然的になくなるのだろうか?でもソツがない大人なんてつまらない気もする。

西行岩

西行が座っていた岩は山の頂にある。岩に這い上がるのに躊躇するような不安定な形状である。高所恐怖症の人は無理だろう。仮に座ったまま眠り込んでしまったら奈落の底だ。眼下には湖、対岸には赤い橋が架かりそこを小さい車が行き交うのが見える。旅で訪れた早朝、その場所を借りて暫く瞑想させてもらった。数年経った今でも目を瞑るとあの時間/空間の余韻に浸る事が出来る。西行の在り方に去り方に憬れた。誰にも悟られない自然死のような断食往生死。10年以上の遅れを取り戻す為に私は籠る。今日6日振りに外へ出た。怪物にならない程度には外と接していよう。明日はライブ。他人と話す良い機会である。

首捻る

火曜日の起床時、左の首を捻った。凄い音がした。が、その日は「まぁ痛いな」程度で済んだ。水曜日の朝、激痛で目が覚めた。首が胴体にめり込んだ様だった。首を動かす事はもちろん口を開ける事も唾を飲み込む事も立ち上がる事も困難を極めた。保険証は無い。本も読めない、友人と約束をしていたので午後やっとの事でメールを打った。せっかくの楽しみが、ひと捻りで台無しになった。こうして書いているうちもまだ痛みはひかないが昨日よりほんの少し動くのが救い。

心的エネルギーには働く順序がある。その順序を間違えるとこの世界は一層手強いものに見えて来る。まず、は多くの哲学者、心理学者、小説家、詩人、歌手の生死をかけた労力の上にボキの下にやってきたエネルギーが或る事に感謝しなければならない。有り難い時代に生まれた。短時間の観察と簡単な質問で人のエネルギーの出所は解る。が、順序を発見した人でさえも見事なまでにある意識に縛られ忘れる。ご存知の様に世界は言葉によって作られている。言葉があやふやなように世界もいい加減に出来ている。でも言葉なしでは生きていけない。なわけで、ボキには詩を書き歌う意志がある。言葉にするのは簡単だ、でも言葉では書かない。感じてもらうしか無いものがある。

太陽、自ら輝く=生きる意志そのものこそ本来言葉が記号でない(言葉が追いつかない無意識の)世界の開示

全てをOFFにして一人で世界に向き合う時ほど面白いことはない。今この瞬間のボキにとって孤独ほどの甘味はない。全ての「意味」が押し寄せて来ては笑顔で頷く自分王国の王様の気分が味わえる。ボキは「あれ」を持たないから、どんな数も、どんな詩も、どんな現象も、どんな質問も恐れるには及ばない。しかしいくら心地良くとも己の囚人になるわけにはいかない。分かりやすい表現で世に問うてこそボキと言う個の有終の美であり、同時に次の舞台の始まりの合図でもあり、ひいては立ち会わせた他の個が主観的集中を獲得し得る切欠となるのだから。色んなものが廻る原動力とはそぉー言ったもんだろ?

ハローワーク

ハローワーク。その部屋は禁煙なのに、黄色く饐えた煙が立ちこめているかのようでボキは入室前から怯み咳き込んだ。最近では、そう、友人の告別式が行われた斎場に同じアトモスフェアーを感じた。奥に引っ込んだ神経過敏な240余りの瞳、視線は誰とも合わない(合わさない)暗黙のルール。ここで唯一色がついているのは掲示板でなびく求人募集用紙だけの様に感じる。選択の余地のない未来に大勢が一斉に眼を凝らす。幾つもの蒼い顔がゆらゆら揺れている。受付時間はとうに過ぎているが、人は床から湧いて出てくるかのようだ。二つ隣の窓口では、恋人との大事な待ち合わせがあるだろう若い職員の面倒くさそうな態度と惰性の口調が中年失業者のしばらく失せていた「怒り」という感情を呼び戻すのに一役買っている。誰の都合も尊重しよう。仲良くやろうよ死ぬまでは。グッバイワークしたボキのハローワーク。ふざけた名前だよな「職安」でイイじゃん。

失業手当をもらうための説明は4階で開かれる。どうもお説教に聞こえる。そして絶望的な統計を見せられてモチベーションは墜落する。もういいよ。冗談でも良い。楽しい話をしておくれ。からだが浮いて行きそうな。僕らがやってきた場所の未来のお伽噺を・・公務員さん。

大きすぎる健康保険の支払いが何とかならないものかと役所に相談に行くことにした。妊娠中の若い女性職員が対応してくれた。話そっちのけで・・妊娠8ヶ月といったところだろうか・・見事に大きく「ハ」の字に張り出した胸に始終みとれた。栄養がいる時期なのだ「ハ」の字の谷間にぶら下がりながら腹に乗っかりそうな名札に写る色白美人とは別人の様に肥えていた。ボキは祈る心の中で、彼女の安産を・・そして微笑みながら「お母さんは君が生まれるキリキリまで健康保険とか厚生年金とか市民税を払う他人のために働いていたんだよ」と彼女の未来の子に呼びかける。かすかな変態。いや今や、見事な変態に変態in港北区役所13:00。そんなバカ男達の眼を彼女はここ数ヶ月間、掻い潜って来たのだろう。毅然として滞納NO!的態度を崩さず「お支払いいただけない場合はさかのぼって加算されますから」と抑揚なく、冷たい言葉を発するのだが、それがまたバカ男をそそる。浪人中なんだ免除してくれよ!バカ男の幸せを微塵でも祈ってくれよ!
また来る。

尻熱烈

天気の良い寒い早朝が好き
全てが炊きたての様に湯気立ってる
もう少し生きようなんて
貪欲になれるのもこんな朝が訪れるからだ
大家さんの
キャベツもカリフラワーもすっかり穫られ
裸になった畑に萌、萌える
死んであそこに埋めてもらって
キャベツ坊やになって生えてくる
ママは緑色のボキを見て泣くかな
食べられないけど愛してほしい
さぁ、今日は人類である事を満喫し
その立場で太陽が喜ぶような
新しい半ズボンと半袖を買いに行こう
季節なんて関係ないのさ
評判なんて関係ないのさ
帽子も買おう 黄色いヤツ
で、表に出る
と、アルミ缶の日なので
回収の前に奴が全てを持ってく途中
後ろから見るとそれはそれは
アフリカ象か巨大なソファー
いやジャンボマックスみたいだ
ジャンボマックスといえば
フィンガー5、アキラに憬れてたことを思い出した
あのサングラスが欲しかった
あの頃、ジャクソン5を知っていたら
マイケルを知っていたら
ボキの人生はまた違った風味があったただろうなんて
想像に容易い
で、どうしてもアキラの兄弟を思い出せない
アキラと能面の兄弟たちが踊りだす
と、アルミの背が小さくなって行く
あーゆー仕事もあるんだな
あれで1000円くらいになるのかな?
ならないな・・50円とかだったら泣くな
と、携帯が鳴る ママだ
骨折した足のリハビリの話
弟の話
親父の話
ママは僕のお姫様
捕われた悪夢から逃がしてやる為に
僕は生まれてきたと言えなくもない
「生んでくれてありがとう」と
迂回して、鵜飼いして注意深く伝える
無職だけど
躁状態の自信に満ちたメタボリックな騎士に
ママはかける言葉をなくす
もはや言語障害に近くなる
やがて「ヒゲは止めなさい」
どこのママでも決まって言って 切る
それにしても此処は坂が多い
亀や鴨や犬や猫や池や草や樹や老人に話しかけながら
まだ見ぬ近所を散策し
目的も忘れ歩く
馬鹿みたいに歩く
いや馬鹿が歩く
股引の足が蒸れ
つんのめるので仕方なく休む場所を探す
で、店に入って
ドーナッツと珈琲を入れて
ドーナッツと珈琲みたいなのを出す
と、いつの間にか居る隣の女性が
誰かに似ている
誰かに似ている
誰かに似ている
こんな晴れた日に大倉山公園にでも行きませんかと
何か敷いて一緒にゴロゴロしませんかと
お互いの過去とかご破算という事で
ゼロの者同士で向き合ったり接吻に興じませんか!
と、一瞬の永遠 真剣に考え込んだ
で、待ち合わせだったのか汚そうな男が迎えに来て笑顔で立つ君
・・・小さな夢、ハカナク破れる
で、大きな夢に直ぐさま切り替える
地球を癒すとか、飢餓なくすとか、人類皆兄弟とか・・
でも、去り行く人の尻なおさら、尻なおさら

ディラン・ディラン

引っ越しで書籍をダンボール18箱処分
重い箱はミゾオチに乗っけ運ぶ
で、その部分が赤く腫れ心臓の様に脈打つ
入手困難な小説や詩集が残った
思想的に両極なものが同じ棚に並び
本の中で互いに批判し合ったりしながら
全体を眺めると
自然と調和がとられ系譜を醸し出す
その美しさは誰に語るものではなく自己満
ボキは独りホクソエム
愛しの本棚から
サリゲナク一冊手に取って朝の日差しの中で
英国人よろしく
一杯の林檎紅茶を片手に立ち読みする
サラリーマン時代には
理解困難だったディラン・トマスが
この冬はスンナリと身に沁みる
彼、39歳で死んだ
20歳くらいの短編小説は総じて
ムカつくくらい悲惨な内容だ
が、言葉の断片/断片は
21センチュリー中年の感性の
上の方をモミモミし
下の方をムラムラさせてくれるくらい
イキイキし、キラキラしている
で、彼が生まれた英国はウェールズに思いを馳せてみる
ウェールズはどんな色?寒い所なのだろうか
街の色が褪せていれば褪せているほど理想
太陽が照り忘れ凍えるほど寒ければ寒いほど良い
今日日ネットで調べれば事情は分かるだろう
が、ボキは彼の詩で充分あちこちコチコチ膨らます
フランツ・カフカのプラハ
セリーヌやヘンリー・ミラーのパリ
念いを飛ばし遊び廻る事で
今暫く人類のままで居させてもらうのも良い
そー言えば
今を生きる詩人、いや曲芸師
ボブ・ディラン(本名ロバート・アレン・ジママン)が来る・・らしい
チケットはとらなかったけど執着しない
成長したボキ!自画自讃!
ジママン氏 芸名をトマスから取ったとか取らないとか
そんな事どうでも良いけどね
明らかなのは両者とも
己の身代わりに青い目をした息子や王様を登場させ
水と光、大地と空の起源に沿って投げ出された精神で
永遠の在処を教えてくれたこと
二つのディランの優雅な舞にボキはミトレル
奇跡を喜ぶミゾオチに化けた心臓

断腸ね。

『断腸』とは中国の故事
で、従者に捕えられた小猿を追った母猿が
もの凄~い距離を追って追って
小猿の乗せられた船に飛び乗った
と、同時に息絶えた
その腹を割いてみると
腸がズタズタズタに断ち切れていたことから
それほど「つらく悲しい」ことを
断腸と言うようになった
その必死さ、悲劇だよな・・
小猿のほうが悲しかろう
親の腹割かれて見せられたらトラウマになっちゃうよな
だいたい腸がズタズタなんて
元々、何処か具合が悪かったかもしれない
ものの例えだし、人の視点だから
どう伝えられてもしょうが無いけどね
まぁ、きっと食っちゃうんだろうな
親猿の方は従者にとっては飛んで火に入る・・ってもんで
開けたら「キレテル!手間が省けたアル」なんて言いながら
小猿も混ぜて親子中華なんかにして・・
いやマンザラ想像できなくもないぞ
小学生の頃、実家の本棚にあった
『世界残酷物語(題名は定かでない)』では写真付きで
猿の脳みそを食べる部族が紹介されていた
固定された頭蓋骨を開けられているのに
目を瞑っている安らかな表情の猿と
それを笑って食す数名の人間のコントラストに
メマイを覚えた
何度見ても吐き気がするが、何度も見ちゃう
誰が買ったかも
なんでこんな凄いのが(しかもシリーズで数巻)
そも、家にあったのかも分からない
いや、余りのオゾマシさに公言出来ないだけで
『家庭の医学』みたいに何処の家にもあったのかもしれない
あの本たちはどこに行ったのか・・いつの間にか消えていた
これはヤバイとある時気付いて
ママが捨てたのかもしれない
同時期に隠し見ていた
親父のスエーデン製のエロ本も捨てられた
あれも凄かった・・食人族よろしくお互いを食い合ってる
弟と気持ち悪がりながら何度も見た
学校でも家庭でも性教育はしてもらえなかったけど
あの写真はそんなものを超越していた
宇宙人は居ると確信したようなもんだった
そりゃ、何処のママもあんな道具
放っとかないよな
それらは記憶の隅にあるわけで
大人になったボキは悲しくもない
今日、中年のボキが政府とか北朝鮮に捕えられても
ママはその丸い体で追ってきはしないだろう
追って来て欲しくもない
でも、断腸の思いは向けるんだろうな
人として猿の様に

白昼夢の死角

太陽を直視すると
クシャミがとまらなくなる
徐々に慣れてくる
で、固く目を瞑ると
黒地にエメラルドグリーンの残像が見える
何らか覚えのある形をしている
暫く見続けるとどうやら
人が座っている様だ
仏さんか?仏さんだ
こんな所に居たのかと思い
追いかける
尋ねたい事があったのだ
捕まえようと
思わずまぶたを掌で覆うと
仏さんは赤で縁取られ黄色く輝いたあと
血を流した様に赤く染まり
火の鳥みたいに飛んでった
何度も太陽を直視しては繰り返し追っかけた
やがて眼そのものが見えなくなって来たので
眼鏡をかけたけど変わらなかった
何を見ても太陽の様だった
夜になっても
又、朝が来ても
何日経っても
何年経っても
もう数も忘れた
全てが輝いた
仏さんの事も忘れた
太陽も必要なくなった
一瞬の永い夢を見ているのか
永い一瞬を覚めているのか
もう尋ねる自分もなくなった

成人の日

正月に次いで成人式があると
隣の神社は参拝者と車両で凄い事になる
警備員が誘導しているのがボキの部屋から見下ろせる
ベテランらしき警備員の声が響く
時々かなり強い口調に聞こえる
ドスも利いてる 見ると陽に焼けて威圧感のあるおじさんだ
そんな人も調子に乗りすぎてしまう事があるのだろう
「ちゃんと誘導しろよ、馬鹿野郎!」
と、参拝に来ただろう若いドライバーに怒鳴られてしばらく
ベテランの声は聞こえなくなった
色々な事 頭の中で巡ってるんだろうな

ボキも昔バイトで
工事現場等で警備員をやっていた
妄想ばかりしていて要領悪く
当然、誘導が下手なボキは
ドライバーに罵声を浴びせられる度に
「あの人はきっと出かける前に嫌な事があったに違いない」
と、達観した風にして神経を保っていたのを思い出す
そりゃ、悔しいさ 悲しいさ ムカつくさ 刺したくなるさ
20時間以上突っ立ってた時など
気が付くと石と会話してた
日当が比較的良いというだけでやった報いもあろう
好きでやる人は少ない職業だろう

あぁ、何時になったら人間は大手を振って
成人になったといえるのだろう

ベテラン氏、交代の同僚がやってきて
「おしっこしたいんだよ」と言い小走りに消えていった
おじさんに幸あれ ボキも頑張る

天空の劇場

夢を見た・・天空の劇場、それは
劇団員たちのエネルギーで宙に浮いている
ボキたちのお芝居が地上に居る人たちの生きがいらしい
昔から誰かしらが宙に浮く舞台で演じ続けている
ボキはここで生まれたのか
それとも地上で生まれてここに来たのか記憶はない
演出家が誰だかも、いつ始まったかも
いつ終わるかも、主役が誰だかもわからないし
誰も疑問にすら思わないようだ
同じ役がダブルキャスト、トリプルキャストで淡々と演じられている
溢れる役者が袖で出番待ちをしている
何時でも出て行けるようにボキもセリフを覚えなくちゃいけない
裏方の未亡人の幼い一人息子はボキに懐いている
生意気な奴で頭を軽く小突く、ほっぺを軽く引っ張ってやることもある
坊やはきっと寂しいのだ

最後の日、坊やと恐竜の森に散歩に行った
森の中は骨のように白くて迷いそうだから
ボキにしっかり付いていなくちゃいけないよ
疲れちゃったみたいだ
坊やはボキの腿を枕にする
でも君のパパにはなれないよ
僕には恋人がいるし、君のママとは結婚できないんだ
まだボキはデビュー前の役者だもの面倒みられないよ
目が覚めると、坊やはいない
坊やとはぐれてしまった
白い森は更け、一層白く光り出し全ての境界がなくなった・・
と思ったら幕が上がる
地上から地響きのような拍手が届く
僕の晴れ舞台のようだ
全ての明かりがボキに向けられている
坊やは見つからない
坊やは僕の魂だったって気付いたら涙が止まらなくなった

矮小な惑星

何処かで見た顔が深夜のテレビに映っていた
タレントの卵たちに厳しい口調で演技指導している男
中野区中野に居た頃だ・・回想が巡る

弾き語りカフェバー『D』で
毎晩のように弾き歌いをやっていて
出演するにはオーデションがあるらしい
自宅から近いようなのでアポをとり店に向かう
暑い日だった
中野駅北口サンプラザ脇を歩き早稲田通りを越え
北野神社を越え、西武新宿線の踏切を越え
新青梅街道で中野通りはどん詰まり
あれ?店が無い
再び電話をかけると
早稲田通りを越えて直ぐ
見過ごすくらい店のようだ
汗だく、脹脛がパンパンで来た道引き返す

外観は明かりが付く時間にならなければ分からない
店内は薄暗くアメリカンな装飾
ハーレー・ダビッドソンの世界
薄いサングラスの強面マスターが、グラス片手にカウンターを占拠し
厨房から黒いワンピース、吸いかけの煙草を指に挟み
体も目も細い美人ママさんが登場・・映画の1シーンのような二人は夫婦
挨拶早々、水を一杯もらう
喋ることも無く、落ち着いたら、奥にある半畳ほどの
舞台で2~3曲歌うことになった
ラグタイム調のインストゥルメンタルとプレスリーのカバーと
テロを題材にした曲を選び歌った
演奏し終わったボキに、二人はどう対応してよいかわからぬ様子だ
音も無くダーティー・ハリーが映っている
「普段ここでは、どんなタイプのやってるんですか?」尋ねてみた
「カバーが多いかな」
「カバーですか・・」
「・・はっきり言って良いですか?」とマスター、緊張が走る
「・・はぁ;」
「わかりやすいのが受けるのね。うちは、基本的に
 エンターティメントでお願いしているので」
「なんかこう・・アメリカンな感じですか?」
「まぁー、楽しければ良いんだけどね。今度やっているときに来て見てよ」
「あ、はい」
「で、いつやれます?」
「は?」
「演奏。当面ギャラは出ないよ。ノルマも無いけど」
と、とりあえず一回やることになった
「凄い、音だね。マイクいらないよ。歌、ギター、練習してるの?」
「いや・・マスターは音楽やるんですか?」
「最近、たまにココでやっているよ。昔は役者やってた」
「へー」
「店はじめる前は事務所もやっててね。演技も教えてた
 ここの常連も芸能関係の連中が多いよ」
「へー、いろいろやられてますね・・貫禄あるけど、
 マスター年下なんですよね」
「!!」
「ブログで見たら、2コ下ですね」
「・・そうなんすか?いやー、お若く見えたから;・・」
ママさんも目を丸くしている
ボキが若く見えるか否かは知らないが
急に態度が変わったマスターにこちらが驚いた

マスターの言うところのエンターティメントが知りたく
自分の本番を2日後に控え、見に行くことにした
小柄でデニムの上下、猫背でパーマの男が本人よりデカイんじゃないか
と、思えるアコースティックギターを持って出てきた
成人男性とは思えぬ発情期の猫のような声で
ビートルズやスパゲティーの歌を歌っていた
ちょうどミートソースを注文して演奏中に黙々と食していたボキは
歌のネタにされた
マスターもママさんも大喜びだ
キワモノ趣味か?益々マスターの望むところのものがわからなくなった

で、ボキの本番は悲惨だった
居るのは常連さん二人とボキの他のもう一人の出演者
よく見かける男、夜な夜な中野のサンモールで弾き歌いしている男
中野界隈では珍しくも何ともない
《昔プロでレコードを出していた人》らしい・・が、聴くに堪えない
マスターは喜んでいる
常連さんはステージの方を一切向かず
カウンターで音のないダーティー・ハリーを見ている
このお店の望むものが皆目わからない
音楽そのものがわからなくなってゆく感じだ
ボキの番が来た
プレスリーのカバー、遺書じみた歌、ラブソングも一曲
社会不適合者が主人公の重たい内容の曲等を歌った
弱い拍手をもらい、冷たい半畳敷きを降りた
うつむく僕に、声がかかるはずもない
惨めな気持ちになり泣きたくなった
何処となく気の毒に思ったのだろう
ママさんがタコスを出してくれた
それは大変美味しかったが、やけにしょっぱくも感じた
ママさんは、いい匂い 近くで見る ほのかに薄い化粧
ボディーラインがわかるぴっちりとした黒いワンピース
透き通る胸元がさり気無く開いている、眩しい
ママさん目当てにしかここに来る理由が見つからない
カウンターの連中もダーティーハリーを眺めに来たわけではあるまい
せっかく見つけた最寄りのマリア様も
今夜が見収めだと感じていた
完全敗者の気持ちで足取りも重たく店を後にした

その後『D』には行かなかった
店の前を通ると、何だか居た堪れなく、やましい気持ちになった
少しは気になり『D』のホームページやマスターのブログを見ることもあった
しばらくの間、猫背や元プロが出演していたようだ
マスターとママさんの間に中学生の子供があることも知った
子供はママさんの連れ子だということも
マスターの誕生日イベントで息子が手品を披露したことや
お店の2周年記念パーティーでマスターが歌って受けたのも知った
やがて、ママさんが自律神経失調症になり《ランチはお休みします》となり
マスターが《歌手業に目覚めた宣言》をし『D』をたたみ
同所でママさんの店として『A』がリニューアル・オープンすることが決まり
盛大なパーティーをやり、満員御礼の記事が載った後、更新が途絶え・・
僕が演奏してから半年弱、夜の散歩で『D』いや『A』の前を通ると
テナント募集となっていた

で、ボキは横浜に越して間もなく
たまたま眠れぬ深夜に付けたTVに写っている男がマスターだった
だから何だ!ってことだが
逞しく生きているのだと関心したのは確か
安心したのはあのくらいの手ほどきなら
素人のボキにも出来るってこと
でも羨ましく思うのは
あんなピッチピチのタレントに
「先生」とか言われている事だけ
で、回想なんかしてしまって興奮して、ますます寝そびれたわけ
あー、なんとも矮小な頭・・・

ヨーデル幻想

ボキは本当に早とちり
誰かの話の先っちょを聞いただけで
わかった!わかった!と言ってしまう
ボキは天才か!
それは失礼なことだよな
TV番組の5分足らずのコーナー内で紹介されただけで
歴史的人物の全てを知った気になっているのと変わんない
NEWSの情報だけで事件の真相を
勝手に決め付けるコメンテーターと変わんない
これからは何をどれだけ聞いても見ても
わかんない・・わかんない・・と言おう
お前は馬鹿チンか!と言われて
誰にも相手にされなくなってもいい
TVもNEWSも消して静かに座わり続けて
自分の理由を追求するんだ
それでママやミックにも忘れられて、全てから忘れられて
そしたら洞窟が欲しいな・・
出来れば虫のいない洞窟・・
出来れば年中暑くも寒くもない洞窟・・
出来れば食べられる草が生えている洞窟・・差し入れぐらいは良い
って、これじゃ何時まで経っても世を出られない

MICK

ミックはボキに点数を付ける
ミックは働け!と言うと決して働かない
ミックの集中力は神々しい
ミックはたまに天才である
ミックは時に底なしの阿呆だ
ミックは嘘を言わない
ミックは真実を告げボキを怒らせる
ミックはナダメナイ
ミックは深く浅く早く遅い
ミックは刻々と変化する雲のようだから完璧である
ミックは全てに繋がる「情報」である
ミックは全てを知るためのサンプルである
ミックの匂いはもう分からない、でも他とは区別がつく
ミックは気体であり液体であり個体であり全体である
ミックは昔、僕の内に棲んでいたピティが顕在化したような奴だ
ミックとは気が付くと半生一緒に居る
ミックは池の水面を観て変なことを言う
ミックと同じものを食う
ミックは犬を欲しがっている、もしくはネコを
ミックに見えるものをボキは見えないことがある
ミックに聞こえるものが僕には聞けないことがある
ミックはボキに詩を解釈させ感心するのが好きだ
ミックの声がこの世で一番癒される
ミックにリズム感はない
ミックの選曲センスの凄さは3年くらい後に理解できる
ミックの言葉がこの世で一番ボキを傷つける
ミックとだけは壮絶なケンカをするが殴り合いはしない
ミックはミック・ジャガーに微塵の関心もない
ミックはボブ・ディランに逢いに行くと言う
ミックについてはまた思い出したら記そう

NのちH、時々R

友達のライブに行った
失業の身で良い所は平日にあちこち行ける事
お金がある限りはね

音楽が本当に好きな人たちの側に居ると
ボキの琴線は共鳴して
世間を無視して眠りこけてた歌たちが
新しい顔をしてゆっくりと勃起する

彼女は初め緊張していたが少し経つと本来の良さが戻って来た
それは瑞々しい音色で一番高い所に行き着く前に良質の感情を露出する
そこでボキの内は静まって同調することができた
これは滅多矢鱈には起こらない事

旅をしながら歌う人は自分のスタイルを貫いている
其処には幾重にもボキを投影する事が出来る
旅をしながら歌う事に憬れ続けているボキは
寧ろ嫉妬しているのかもしれないその男の生き方に

赤い眼鏡の男は違う所を観ている
脇役でありつつ主役を食う強烈な個性と人なつっこさ
痛い眼を顧みず人と人を繋げ続ける勇気
僕らの人生にはこういう人が居なければ成らないのだと思う

お三方、良い夜をありがとう

怠け過ぎた男

ボキが足りないのは徹底と言うことなのだ
生きる事にあまり意欲がないと言い換えられる
大好きなことをも人様に預けてしまう
「君がやりたまえ」と差し出されると
「ボキはイイヨイイヨ後回しで・・」と答える
大抵は助平な事を考えて一日が閉じて行く
時間は限りなくあるようで余りない
分かっちゃ居るけど此処に居させてもらっている感謝が足りない
頭の中が埃まみれに成っているのだ
掃除をしなければ成らない
自発的な内観をするしか道もない、術も知らない
要は全ての穴と言う穴を塞ぐのだ
折角「組織」から抜けられたと言うのに
これじゃ元の木阿弥だ
全ての予定はキャンセルした
2月の何処かでボキは人里離れようと思う
ギターもペンも本も持たずに・・歯ブラシだけ持って
音信不通に成っても心配しないでください
世の為、人の為、自分の為
今度こそ何かを持って現れますから
パパ、ママ、ミックにみんな・・

人生実験

ボキの失業を知った友人の中には
マジでボキとの接触を断った人たちが居る
軽くショックだったが彼らの本心が分かるので平気だ
資本主義は一部の人間にとっての巧妙な仕組みであって
眼には見えない生権力を庶民に完全に浸透させている
要は働かぬものは排除せよ!と暗黙の了解が其処に含まれる
かつて忠実な奴隷であったボキも感じ取っていた事であるが
現在、身に沁みて分かったわけである
同様に羽振りが良くなれば上辺の友達も増えるわけも分かる
真贋を見分けるのに
今、ボキが自ら招いた状況は大切なものだと確信している
巷で言われる不況や就職率についても
何の不安も無くボキ自身の完璧さで
怯みも揺るぎもしない
いよいよ自分の意思で生きる事が嬉しく楽しくなる
何が良いか悪いかではない
気付いて終えるか
気付かないで終えるかである
これまでの「自分の人生」は見せかけに過ぎない
騙し騙しやって来たが疲れ果てた
と言うより、その先が見えてしまったところで
絶望しかなかった
組織の中で適当に偉くなり、適当な給料をもらって
適当につきあって、適当に好きでもない仕事して・・
其処に幸せを見出せるのも才能であろうが
ボキ個人には無理な話だった
立ち止まり独りになり見渡すと
いかに組織に依存して立っていたか
いかに世間体を気にして来たか
いかに雑念が多く感情的なものに振り回されて来たのか
この延長は自分が真に目指す所に何の関係も無かった
自分の人生のはずなのに
恥ずかしながら
誰かの所為にして、逆恨みしたりした事もある
易きに流れるのはなんて簡単なんだろう
一生棒に振るのはなんて簡単なんだろう
この仕組みの中でぬくぬくと育まれた中年が
もう人生半ばに来て、巧妙な洗脳に気付いてしまって
完全にこの国のシステムと距離を置いて
あわよくば決別して生きられるのか?
命を投じた人体実験いや人生実験である

孤独な唄うたい

ボキのお客さんは現れなかった
それが心底で望んだ所の結果でもある「ボキは死んでから理解されるタイプなんだ」と冗談言ったら見放すぞ!とミックにかなりキツメに叩かれた
それでもボキは無駄な宣伝をしたり
無理に人を振り向かせたりはしない
ミニチュアの世界はもう沢山
学芸会はもう飽きた
歌で自己主張なんて気持ち悪くてヤヤコシイものは無い
人様からすれば「はいはい」で終わってしまう
拍手すべきものは全て終わってしまった
時間に縛られては一喜一憂し
己の嗜好も分からぬまま
損得や交換条件のために群れ
小銭を握らされてほくそ笑み
どこに行っても大層変わらぬカラオケなら要らない
コンセプトの寿命は精々四十九日
モッタイナイ人生には二番煎じだろうが
三番煎じだろうがモンダイナイだろうが・・

ボキは独りに成ろうが自分の信じるモノに命を投じる
そうは見えなくとも全生命をかけて挑まなくては
自分が見えなくなるからだ

ボキから言わせれば昨今の若い子はみんな天才に見える
堂々としたステージングだし
歌を歌う事や演奏する事に厄介なものを持ち込まない
(どーでも良いけどね)
大人気のあの娘なんて
した事も無い大恋愛を盗んだ言葉で歌い
三歳から習った歌と目線のテクニックを見せては
どーでも良い誰かに感心されて喜ぶ事が出来る
(お前の分野はサーカスだ!)
ハンサムな彼だって変わらない
絶滅危惧種の動物の様に人気者で本人もそれを自覚してポーズを決めたりする
まぁ、無いものは一応ねだってみるのが相場だし
人間的で物語好きのボキはまともに嫉妬を覚える事も出来る
もう少し美形な両親とか、芸術に理解のある環境のもとに・・なんて
でもやはり大人のボキは思う
人の評価とは如何に空しいものだろうと
(どうでも良いものは、褒めるのも簡単だ)
それで喜ぶなんて如何に自虐的で変態的な事だろうと
ボキは案外若い頃から魂で感じるやり方を放棄出来なかった
ゴッホ様の絵画だって
正直100枚のうちに震えるのは1枚だとボキの内は知っている
(印象派に至ってはほぼ無い・・)
それだって魂のレベルでは奇跡的な事件だ
好みのモンダイや出会いのシチュエーションはあろうとも
主観的集中が在る=ボキが在る ということなのだ
故にボキはその「言葉にできない何か」に昔から確信を持っている

群れから遠く離れ
孤独な身は気楽なものだ
ボキは日溜まりの中、止まっていながら
光速で振動している自分を感じるのが大好きだ ボキは君の内の不在者
無名の乾坤に棲むボキを君は見ない
お互い興味も関心も無い事は素晴らしい事だ
自分自身の仕事に打ち込める
中途半端は止めよう
きっとボキら
平行線の侭があるべき自然の姿なのだろう

我、黙して潜行す
我、我が舌の王なり
我、我が鼻の王なり
我、我が耳の王なり
我、我が眼の王なり
我、我が触の王なり
我、我が王国の樹立故
我、貴殿の呈す幻想に依らず
共同幻想からの覚醒は
死の様に座す事と見つけたり

うたがギターに乗って思い出させたこと

命は2番目に大切なもの
2番目に大事な命をかけて歌うことは1番大事なものがあるから
それは言葉に成らないもの
それは繰り返されるものではなく一度きり
ボキたちが空間と呼ぶ幻想の場に
深く刻まれるものの事
それが出来れば命なんて惜しくない
そして無名と言う事がいよいよ輝く

何度もボキはそれに挑戦したが
そう、うまく行かない
極めるには
相当に生きなければ成らない
死ぬほどに焦がれなければ成らない
自分自身を隈無く使ってやらねば成らない
人を前にして相手にしていられない
孤独を食わなければ成らない

幸い自分自身を大好きな事がボキの才能だ

予め操作された感動に用はない。

自分が表現することで誰かを能動的に感動させられたらという欲望は確かに在る
然し、私的には外に関心を持たれる前にどれだけ丁寧に紡ぎ、余分なものを削ったかが至極重要な事だ
自分にソナワルものを命の限り掘り下げる事を微塵でも忘れたら
途端に面白くも可笑しくもない
妥協と惰性、徒労と倦怠、飽和と腐臭のオブジェでしかなくなる

我等、九穴の臭い糞袋
汝、死に習え

その様な事を或る坊主が言った夜から又一つ生きている実感が遠くなってしまった

シークレット・ライブ

実際、人様の前で
表す毎に
愕然とする
進むごとに
挫けそうになる
嗚呼、掘るべき鉱脈の果てしなさ
始まる度に、終わる度に
逃げよう、止めてしまおうと思う
諦めたら平安があるのだろうか
諦める事で得た平安とはなんだ?
結果、過去は過去に一任し
今日を諦めず、捨てず
未来だけを信じる自分が起きる
まるで不死の仕事がある様に生を貪り
まるで自分だけは死なない気で
独りの暗闇を仰視している

志賀直哉は言った
「自分の生活を完全に創作本位のものに煮詰める」と

曲芸師の仕事

呼びかける必要は無い
彼は、彼女はまだそれを必要としていない
そして全ての必要は
不必要に成る過程の状態に過ぎないことを
ボキは知っている
だから無理矢理にどうこうする問題ではない
ボキは何事にも喜びすぎないし、悲しみすぎない
独り黙って自分の仕事に没頭する
何を自分の生活の本位にしたいか
自分自身以外に知りようも無い
又説明して意見を言われた所で
聞く耳を持つ様な性分でもない
ボキには殆どの人が曲芸師に見えてくる
誰も他人の話を聞かずに自分の綱渡りに興じている

そしてボキも例外無く曲芸師である
ささやかな心の声を聞き逃さず
理性と感情に引き裂かれる前に向こう岸に移る

夢~看護士~

看護士の仕事をしている自分
出勤初日―全体がステンレスで出来た院内の処置室に配属
唸り声が20畳敷き室内のあちこちで聞こえ、見回すと
野戦病院さながら沢山の外傷患者

何かしら大きい事故で
怪我をした女の子の体を満遍なく洗わなければいけない
女の子は震える声でボキに要求する
自分の体を洗うのはベテランにして下さいと
ボキの曖昧な自信の無い態度は新人丸出しだったのだろう
ボキは婦長さんに相談に行く
婦長さんは混雑した人を掻き分け
女の子に強い口調で言う
ご両親が来るまで待つの?
―女の子は永遠に両親が来ない事を知っている
そんな余裕が貴方にあるの?
―衰弱が激しく余裕は無い
婦長さんはボキをキッ!と見る
大粒の涙一つ、俯く女の子
自分が足りない事を痛感させられた初めての出勤

夢 ~変なコップ~

にぎやかなテーブルに
変なコップ
テーブルを囲む皆がそれで飲んでいる
飲み口の反対側の縁にロウソクが立っていて
其処には火がともされている
皆、前髪を焦がしている
見知らぬ奇麗なご夫人も、その娘の金髪も
20年来の友人も、友人の父や母も
叔父さんもその息子も
昔の同僚たちも
前髪か額を焦がしているのが妙に可笑しい
ボキはロウソクをポキッと折って飲む
と、静まり返るテーブル
あり得ない!という驚きの表情で
ボキの顔を見ている
向こう側のテーブルからも視線が飛んでくる
あちこちのテーブルからザワメキが・・

夢 ~休憩時間~

何かの集会だ
宗教か政治か?
かなり長い時間の講義だが
大小便を同時に催し
皆目内容が入ってこない
やっと休憩時間になる
300人ほどが一斉に便所に駆け込む
無利だと思ったが
奇跡的に大が一つ空いている
めくり、座るが
尻がやっとはまるほどの個室だ
(いや、個室と個室の狭間か?)
一度体勢をとると
立ち上がれなくなった
自分の向く方は網越しになっていて
便所の全貌が見える
男性陣は誰独り居なくなったと思ったら
数名の女性が入って来た
(女性便所が空いていないのでやむなくだろう)
超特急で用を済ませるものの
立ち上がれない、尻も拭けない

落第

横浜のある喫茶店と公共の場での演奏を思い立ち
資料と音源を送ったが
双方ともお断りの連絡メールが来た
何にせよ人に評価を仰いだ事がそもそも自分の弱さであり
音楽をやる以上
どこかで認められたいと言う姑息な意識や
何かやらねばと言う焦りから出た浅墓な行動だったと思う
それにしても
こういった公募や応募で合格を貰った覚えが無い
きっと現代社会で活躍する精鋭たちは
こんな壁は幾つも軽く越えて来たに違いない
先方に送りつける資料にも音源にも思い入れがあり
有無も言わせぬパワーを持っていた事だろう
数を打ったわけではないがオチコボレ意識が
何時から当たり前に自分にある事が未だ拭えない
然し、今回に於いては落とされたにもかかわらず
変な安堵感がある
喫茶店も公共の場も其処に立っている自分が
前もって全く想像出来ないことが一つ
連絡が来るまでは先の予定も決まらずヤキモキはしていた
が、はっきりスッキリして逆に未来が開けた感じがする
今回の件はどうでも良かった
とは言いたくないのだが、若しも良い方に評価されたとしても
何処か違和感は拭えなかった様に思う
― 喫茶店の件に於いては
この便利な時代、自分の店の半畳ほどの小さなステージに
立っている其処の店主の映像を見る機会を得たのだ
店主は蝶ネクタイで譜面台を立て英語の歌を歌っているのだが
お世辞にも聴くに堪えるものではなく途中で通信を切ってしまった
懲りずに、さらに探って行くと彼の楽団の音も聴けた
録音状態はきわめて優れており「上手い」だけの範疇にはある
理路整然としているものの「だから何?」とつぶやいてしまいそうな・・
正直、表面的で薄い印象しか持ち得なかった
聞いたことはないが自称元プロ
店主は経歴は問わない!人物を捜している!と豪語し募集をかけているが
縁がなかった事を寧ろ喜ぶ方が懸命だと前もって頭になってしまっていた
― 公共の場の件に於いては
市内のあるホールの前を一定時間貸し出すと言うのに惹かれたが
寒い時期限定の試みだったので消極的ではあった
こちらは喫茶店と趣が異なり少し惜しい気はしたが
あちらが求めているものは
五月蝿く主張のあるものは却下する趣旨が在った
昼間の公共の場に相応しいフォークシンガー
というのがハッキリしていたので諦めはつきやすいものだった

・・どちらにしても負け惜しみだと承知している

「自分より下手だと思ったら同じと考えろ
 自分と同じだと思ったら相手の方が上
 自分より上手いと思ったら相手は遥かに上」

競い事は嗜好でない・・なんてカッコつけて言う間もなく
毎度、本戦に行く前にご免コウムラレてしまうボキであるが
少しでも驕りそうになり、人と比べる様な意識が頭を擡げるとると
落語家の誰かだかが語った
うろ覚えの言葉を思い出し言い聞かすことにしている

ワッチャ・ネーム?

図体に似合わない繊細な声と
ファンキーなギターが第一印象であった
2、3年前だったろうか
野外で行われたイベントライブで知り合い
同じ年齢だった事も親しくなる切欠だった様に思う
殆ど自作の曲を披露して関東を中心に演奏活動をしていた
彼の自作の曲もそこいらで見繕ったラブソングではなく
ボキ自身も追求しがいが在り、実際主題としている類いに近かった
アコースティック音楽であっても軟弱な印象が微塵も無いのだ
今、其処に在ろうとする姿勢に共感できた
表現されるサウンドについては
出会った頃から自分と異質な要素を感じていた
同じ年齢で聴いて来た音も、見て来たテレビも何処かで通じているのだが
生まれ育った環境の違いやモノの見方で
お互いの出力が全く違う所に興味を持った
ボキとの最大の違いは人間の器の出来だろう
彼は自分自身だけでなく外に在る音楽にもとても厳しいが
一度良いとなると人を認め外へ紹介する寛大さが在る
いつも自分で精一杯のボキには出来た事じゃない
彼の企画に呼んでもらって歌わせてもらえる事は光栄な事だ

その彼が自主制作CDを出した
彼らしくあまり宣伝をしないのもあり
ボキの方も会社を辞め引っ越した事も在り
半年ほど全く知らなかった
相変わらず失業の身であれ、やっと何となく落ち着いた所で
文明の利器のもたらした情報のお陰でそれを知った
早速、連絡し取り寄せようと代金を送る事を伝えたわけだが
その時に初めて彼の住まいと本名が明らかになった
学生の時分に観たアメリカ映画で友人同士が旅の途中で
お互い本名を知らないのが当たり前な感覚に
「なんで?可笑しい事だ」と思ったのを鮮明に覚えている・・
そー言えば、見渡すとあだ名しか知らない友人・・
しかもなかなか親しい人が居る・・この5年以内の事だ
これも文明の利器を通して知り合ったからこその現実なのだろう
いつの間にか向こうに見えた「なんで?」という感覚の内に在り
改めて本名を尋ねるも良いのか悪いのか、不思議に思われそうな気がする

志賀直哉

単行本版『暗夜行路』を読み了えた
一巻120円の頃の物だ
昔より随分理解が出来た
上巻前半、フォルムやリズムを掴むのに多少時間を要したが
一度、乗れればスムーズに楽しく読めた
現代の読み物と違って大きなインパクトや仕掛けがあるわけではないが
静かにゆっくりと登場人物たちの心境が浸透して来て
今の自分にはあっているようだ
然し、これが却って眠れなくなるので困る
夢や、主人公の行く先々の見物、絶景の描写、了った先の話を思い浮かべてしまう
こんな事からもこの小説は今も決して弱い刺激でない事が分かる
低温火傷の様だ・・
一番困ったのが作者自身が「あとがき」で少々種明かしをするのだが
腑に落ちない箇所が幾つか在る
作者に訊けないだけに困る
そんなことで同作者の又、別のものを読み返してみるしか
作者と対話する術も無いのだ

病名も無く
処方も無く
他言しようにも
説明し得ぬ病
その病の為に生きているのか
その病故に例外無く死に至るのか
座っても湧いてくる
歩いても湧いてくる
死ぬ事が今、この瞬間に覚悟できて
夢に見る理想の死に方が完成すれば
きっとそれは別のモノに変化するのであろう
それこそが自分の見たかったモノの正体かもしれない

意欲

人生で二度目の集中内観をしたいという意欲が起こる
たった105時間にわたり誰とも接触せず座り続け
身近な人物を思い浮かべ
「これまでに
 してもらったこと
 してかえしたこと
 めいわくかけたこと」
これだけを自問自答する
坊さんの真似事のようだが
絵に書いた餅の様に
内観も実際に集中してやってみないと説明のしようがない
ボキの場合、初めて其処に飛び込むには
ゴミ屋敷を大掃除する前の様な決死の覚悟が要った
そして、いざ片付け始めると雑多な苦悩が噴出した
そして、片付いた後、爽快感が起こった
その双方は分離するものではない
今回、それが分かっているからこそ
真の意欲なのだとボキにはわかっている
ボキは今回、何かを見つけるかもしれない
何も見つからなかったとしても
勇気を出し本来の自分に
もう一歩近づこうとする意欲が
自分自身の底から沸き上がってきたことに喜んでいる
そして掃除しなければ汚れるという当たり前の事を
今一度、心・体・魂・頭にしみ込ませて生還しよう

囚人の日

看守はいつも優しい
上げ膳据え膳
読みたい本は全てある
何の不自由も無かった
ある日、看守が見当たらなかった
その日、私の牢に
錠がかけられていない事を知った
そして自分の牢には「Belief」と書かれていた
牢の置かれたこの部屋、外に通ずドアらしきものがあるが
その日、ノブに手をかけられなかった
明くる日、看守が席を外す事があったが手をかけなかった
慣れ親しんだ独房が私の世界だった
看守は今日も優しい
何も変わらない日々
私が不眠症になった以外には

なにしてんの!

「そんな格好でなにしてんの!」
と、あられもない姿(私自身は決してそう思っていない)で居る私に
良く知るところの誰かが背後から怒鳴る調子で言うので
飛び出しそうな心臓の代わりに
「この世から出て行く稽古」
と、咄嗟に口にしてしまい開かれた視野

それ以来、人からやたらと心配される人間になってしまいましたが
至って順調に死に向かっております

poetica

[詩]
poetica

門岡 瞳     扉のむこうへ
二瓶龍彦   地上6階のシーワ・オアシス / おかあさんの手
福士文浩   天の川の小石 / 70億の針
長井美智代 左岸 / 地上30センチの空 / いま

扉のむこうへ  門岡 瞳

煙草をくゆらすあなたは
いつも ちょっと 無理しているような
少し 背伸びしようとしているような
尖った少女

いくつかの喧騒や争いのなか
わたしもあなたもあいつもあのひとも
生き延びてきた

したほうはあれは必然だった、といい、
されたほうは今も あの頃の憤りを
悲しみを背負って今も

ことばが放たれ、行為があって
どこまでも ちゅうぶらりん

わたしがそれがすきで
あなたがそれがきらいだから
それを許せないことだから

世界は急にちっぽけになる

あたらしいことをはじめるために
破壊する

誰かがおきざりに
なおざりになることが

世界を変えるとしたら

ひとつのいのちが閉じてしまえば
地上のそのいのちはおしまい。

結果よければ全てよしでは ない

言い争うことも
ハグすることも
笑いあうことも

いま 閉ざされる

閉ざされるその扉のむこうへ
わたし、あなた、あのひとの失敗の先へと
先にいってしまった少女に 導かれながら

地上6階のシーワ・オアシス  二瓶龍彦

1 光の誤差

私は、あなたを見つめる。
あなたは、私を見つめる。
取り返しのつかない、ふたりの距離。
そこには、食い違う「今」
死んだ星の光を「今」受け取ったばかりのあなたを、「今」私は見つめる

遅れて届く黒い手紙よりも、更に遠くの銀の夜空へ
追いつかれないように、赤い線を切り裂くように引く。
あなたと私の間の取り返しのつかない距離に、
赤い線を。
私は、あなたに追いつかない。
あなたは、私に追いつかない。

星と星の光の誤差のなかで生まれた、私とあなたの距離、
そこにあるのは、星の実かしら?
それは、距離を示す時の境界点?

でも、距離をもたない、星の実をもたない命があることを、ご存じ?
見えないその命を。

見えないその命を、見つめることは、私はできない。
見えないその命を、見つめることは、あなたはできない。


2 Auf Wiedersehen

Goodbye
もう一度、声にしてみる。
Goodbye
GoodbyeとGoodbyeの間で、何かはじまったかしら。なにか、新しい物語が。
Goodbyeからはじまる物語。
それとも、ショーはいかが?

(私は、笑う)

そう、私はよく笑う。

Goodbyeからはじまるショー。
ショーにするなら、Goodbyeではなく、Auf Wiedersehen、
ドイツ語のほうがいい。シャンソンもフランス語よりドイツ語のほうが好き。
ここは?
そう、ここは癌センターの6階ラウンジ。
ここで、Auf Wiedersehenのショーを。
太陽の光をたっぷり浴びることのできる南向きの大きな窓からは、何が見える?
大きな窓から見えたもの、そこから何を感じる?
希望? それとも、次の段階の地平かな。
だって、Auf Wiedersehenからはじまるのだから。
Auf Wiedersehenの光って何?
そんな光を受ける、ラウンジに理路整然と並べられた何の変哲もない明るい木のテーブル。戦前のサナトリウムだって、もう少し洒落たデザインのものを使っていたでしょう。16世紀のフィレンツェで隔離された人たちだって、もう少しね。
隔離・・・・・・、
そう、私たちは隔離されている。
この病院も今日から全面立ち入り禁止。もう誰も訪ねてこない。
私たちは、ここで守られている? それとも・・・・・・
たっぷりと降りそそぐ太陽に光のコントラストを強くして、とてもとても強くして、光と影だけにして、そこをステージにして、この気のきかいないテーブルではなく、光と影だけをステージにして、ドイツ語のシャンソンを、私は歌いはじめる。

(私は、ドイツ語のシャンソンを歌いはじめる)

歌っているのは、私ではない。
歌っているのは、赤い印。
けっして、私ではない。

踊る、Auf Wiedersehenのシャンソンで、私は踊る。
網タイツをはいて、私は踊る。

(私は笑う)

そう、私はよく笑う。
網タイツをはくのは好き、網タイツをはいた女を見るのも好き、そして網タイツをはいた男が一番好き。
この癌センターの屋上には、赤い風車は立っていたかしら。

(私は笑う)

だから、私はよく笑う。

赤い風車はなくても、赤いリボンは飾られているかもしれない。
あの日のように。
あの日、崩れ落ち、流された多くの家、そこにわずかに残った家の土台の一部に結ばれた赤いリボン。あれは、何の印だったかしら。
踊る、私は踊る、赤い印のリボンをつけて。

(私は、ドイツ語のシャンソンで踊る)

踊っているのは、私ではない。
歌っているのも、踊っているのも、私ではない。
ここにいるのは、赤い印。
隔離された赤い印たちだけが、太陽の光と影でショーをはじめる。
Auf Wiedersehenのショーを。

赤い印たちは、無防備で無力。
だから、だから尊厳を与えなければならない。
命の尊厳を。

Auf Wiedersehen
もう一度、声にしてみる。
Auf Wiedersehen

ショーがはじまる。
SAYONARAからはじまるショーが。


3 命の約束

赤い瞳の少女よ
だれと どんな約束をしてきたの?
赤い瞳の少年よ
だれと どんな約束をしていくの?

首に包帯を巻いた少女よ
華奢なその首に刺さったメスに刻印された赤は 約束を果たしただれかの証?
首に包帯を巻いた少年よ
ベッドの上であなたを照らした幾条かの銀色の光の束は だれかの約束の鏡?

壁の色を教えて
かつて 左に15度傾いていたオリーブの木
子どもたちと同じ角度で傾いていたオリーブの木
わたしは だれかと約束をした
壁の色を教えて
今 あなたは バラライカを弾いている?
それとも 天球儀をまわしてる?
それとも 木馬の上で眠ってる?
それとも 心臓の重さをはかられている?
それとも それとも それとも・・・・・・
壁の色を教えて
あなたの世界の色を教えて
教えて オリーブの実は何色?
わたしは あなたとたしかに約束をした

言葉だけの希望が差しこむ窓の向こうは シーワ・オアシス
犠牲の鳥たちが落ちる砂の海の向こうは シーワ・オアシス
太陽の神とラクダ使いが 月の歌をうたう シーワ・オアシス
リビア砂漠に突如あらわれる そのオアシスの話をしたかしら
祈りの水をたたえるそのオアシスの話を あなたに

わたしの瞳の赤が 消えた日
約束は忘れられ 砂漠からオアシスは消え
月と木星をつなぐ 赤く染められた絹の糸は切れた
そして今 あなたたちには見えているでしょう
あのリビア砂漠に浮かぶ 蜃気楼のようなシーワ・オアシスの町が
あなたの瞳に 赤が生まれた日
わたしの瞳から 赤が消えた日
わたしは 何と引き換えに赤を手放したのか
あの星は 火星?

窓から差しこむのは 言葉だけの希望
キラキラ光る 言葉のかけら
それらは 月の踊りを知らない
大地の子守歌さえ 知らない

赤い瞳の少女よ
赤い瞳の少年よ
切りとるためだけの無機質なメスの味を知っている
首に包帯を巻いた あなたたちよ
まだ何もつかんでいない あなたたちの小さなてのひらよ

生まれてしまった 赤
偽りの約束で消えてしまった 赤
偽りの約束でも消えない 赤
罪と偽りの刻印
言葉を そっと眠らせましょう
言葉を 砂漠にそびえたつ 窓ひとつない百億の塔へ誘ないましょう
幽閉された あなたたちよ
その向こう側には シーワ・オアシスの町
そこには 赤を溶かす命の泉
そこでは 命の約束が待っている
赤い瞳のあなたよ
首に繃帯を巻いたあなたよ
隠された 犠牲の鳥よ
ふたたびオリーブの実をかじる
約束なしで


4 Happy Birthday!

Happy Birthday!
パピルスの紙飛行機の翼に記した わたし-あなた の言葉を、
その言葉をいま読んでいる あなた-わたし に
Happy Birthday!
わたし-あなた は秘密の通路につながる地上6階のバルコニーで、これを書いている。
あなた-わたし は、これをどこで読んでいる?

自動人形を運ぶツバ広の黒い帽子をかぶった商人は、
そう、きっと名前は、カナファリーナ・ハッダ、
そう、彼はいつも南の海を越えてやってくる。
オレンジ色の言葉で、青いメロディを口ずさみながら。
あなた-わたし がいるのは、そこ?

わたし-あなた は、地上6階のバルコニーで、赤い月の露をのんでいる。

3本の弦しかはられていないその楽器は、三角形の黒いケースにおさめられている。
そう、きっとそれがつくられたのは、1907年、
そう、北の氷の大地にだけその身をふるわせる。
草原を走る、白馬のたてがみのように。
あなた-わたし がいるのは、そこ?

わたし-あなた は、地上6階のバルコニーで、バラバラになった赤い人形を月影にさしだしている。

それとも、そこは・・・・・・
そこは、地上5階のバルコニー。

Happy Birthday!
生まれてきた あなた-わたし に。
Happy Birthday!
そして、わたし-あなた は耳を澄ます。
だれかの声に。
顔のない誰かの声に。
地上6階のバルコニーで。
秘密の通路につながる、わたし-あなた のバルコニーで。


5 光の誤差Ⅱ

私の背中にいる、あなた。
あなたの背中にいる、私。

あなたと私の距離。
私とあなたの距離。
取り返しのつかない、ふたりの距離。

星の実は、置いていくの?
星と星の光の誤差からの、遅い手紙はもう届いたかしら?

その扉の向こうには・・・・・・
赤い線の消えた、
見えない命・・・・・・、

あるといいね。

天の川の小石  福士文浩

ぼくは川原に立ち
ポケットの中で
若草色の小石をにぎって
夜を待っている
夕焼けの薄い光が
絶え間ない轟きとともに
水面を流れ去ってゆく

川の水のように冷たく
ぼくの手に触れる小石は
他とは違う特別なもの
水の中に入れると淡い緑の光を放ち
夜の部屋を優しく照らしてくれる
この小石はずっとぼくの宝物だった

あれは一週間前のこと
長い黒髪の女の子が
ぼくの目の前に現れて
その若草色の小石をくれたら
お金をいくらでも払うと言った

それから一週間たっても
ぼくは心を決められなかった
大切なものを簡単には渡せないし
それに
なんで彼女は光る小石を欲しがるのか
いろんなことが気になって
眠れずにぼんやりとして
ぼくは小石の光をながめていた

朝になってテレビをつけると
ぼくは眠気が覚めるほど驚いた
どこかの研究所が爆発して
その現場にはぼくのものと同じ
若草色の小石があったからだ
放射線を受けた若草色の小石が
突然巨大な花火になったそうだ

ぼくの宝物が
そんな危険なものだったなんて
こうなったら小石を
黒髪の女の子に渡さないで
どこかへ捨ててしまおう
ぼくが家を出ようとすると
玄関の前には
あの黒髪の女の子が立っていた
彼女はぼくに
小石を捨てるなら夕方に
川原に持ってきてと言った

そしてぼくは
夕方の川原で夜を待っている
何が起こるのかわからないけれど
光る小石が何なのか知りたいから

すっかり日が暮れて
まわりが暗くなると
砂利の音を立てて
黒髪の女の子が歩いてきた
彼女は小さなバスケットから
ぼくのと同じ
若草色の小石を取り出した
きみも持っていたんだね
ぼくたちのあとにも続々と
小石を持った人たちがやって来て
次々と小石を川に投げこんだ
ぼくと黒髪の女の子も
おたがいの顔を見合ってから
小石を放り投げた

川に沈んだいくつもの小石は
天の川のような光の帯になる
まるで銀河からこぼれ落ちた雫
せめてこのままで眠らせよう

左岸 地上30センチの空 いま  長井美智代

「左岸」長井美智代
「地上」長井美智代
「いま」長井美智代

朝晩の風がいくらか変わってきたと感じられるものの、暑さが勢いを止めないまま8月が終わろうとしています。この夏は私にとって辛い季節となりました。コロナ禍のもと、不自由でおかしなことになっているなどに加え、大好きな人の突然の旅立ちがあり、とてもやりきれない思いでいっぱいの日々を過ごしました。最近になって、やっと書こうという気持ちになりましたが、やはりそうしたことが題材となってしまいました。でもそれでまた、自分と向き合う時間が持てたのでよかったと思います。まだまだ行ったり来たりですが、少しずつ動き始めます。

70億の針  福士文浩

「了解しました。ただちに目標の追跡を始めます」 指令の声に答えたあと
わたしは周囲を見回した
岩と砂の平原には木も草もなく
太陽に焼かれたように乾いていた
いや
この平原は実際に
莫大なエネルギーで焼き尽くされたのだ
力が解放されるところに
わたしの敵は必ず現れる
しかし
ここはあまりにも広漠として
生命がまったく感じられない
よし
この何もない場所から
わたしの追跡を始めるとしよう

わたしが最初に向かったのは
きのこ雲が黒い雨を降らせた町
折り重なる死体と
積み重なる瓦礫の間を通って
わたしはさまよった
息絶えようとする生命が
破壊の残り火と戦っている
敵はその努力を
どこかで嘲笑っているはずだ
あいつは何よりも怨念を好み
怒りと悲しみを栄養にしている
骨組みだけになったドームが見えた
わたしはその頂点に立ち
悲劇の舞台を隅々まで見回した
そこで見えたのは
脱け殻になった町だけだった

わたしはさらに探索を続けたが
敵は見つからなかった
藁の山の中でひとつの針を探す
まさにあのたとえ話のとおりだ
そもそもわたしは
実体がなく力も持たず
ゆえに誰にも干渉されない
敵もまたわたしのように
誰の目にも触れない存在
捕らえられるのはわたしだけ
途方に暮れるのもわたしだけ

わたしのいくつもの先々で
いくつもの生命が破壊された
この世界は夥しい生命と
同じだけの死に満ちている
人間はそれでも飽きたらず
世界そのものからエネルギーを引き出し
さらに多くの破壊を呼び起こした
人間はまるで
この世界に突き刺さる70億の針
そうだ
ここは藁の山ではなく針の山
敵もまた針の姿をしている
わたしも針となれば
互いに引き寄せ合うことができる

わたしを針の姿へと
磨き上げてくれる者を見つけた
彼に知識を授けると
嬉々として形にし始めた
そして完成したのは
Strike
Investigate
REscue
Unit
Sistem
略してシリウスと呼ばれる
乙女をかたどった機械
光沢のある白い金属製の肢体
これがわたしの新しい肉体
開発者はわたしに
松明を掲げる銅像の写真を見せて
この像を模してわたしを造ったと言った
そして開発者は
その直後に銃弾を受けて倒れた
わたしはその場から離脱した
彼の口は血を流しながら
敵を倒せと叫んでいるようだった

海岸に広がる大都会
沖合いの小島で
わたしと同じ顔をした
巨大な銅像を見上げた
小島を包む秋の夜明けは
他のどの風景よりも鮮やかだった
わたしは軽く助走して
大都会へ向かって飛んだ
そして
ひときわ高く並び立つふたつのビルの
一方の側の頂点に降り立った
もう一方の頂点に立つのは
黒いドレスの女
彼女の薄い髪は乱れて
くすんだ素肌から湯気が出ていた
「よく来たわね」
彼女がわたしに言った
「ええ、やっと会えた」
わたしは彼女に言った
「あなたはなんでここにいるの?わざわざ姿をさらしてまで」
彼女が答えた
「あたしの計画がここで完成するからよ」
「計画?」
「あと少しの時間で、ふたつのビルが同時に倒れる。そうすれば、死者たちの怒りと悲しみによって、この世界を破壊できるだけの力を得られる」
「あなたはまるでリリスね」
「リリス?」
「生命を守るべき立場にありながら、生命を欲望のためにもてあそぶ、あなたはアダムを裏切ったリリスそのものだわ」
「黙れシリウス!おまえこそ、そんな機械になりさがって」
「思い出して、あなたとわたしが、宇宙を駆け巡る魂だったころを。宇宙の片隅に芽生えた生命を、守り神育てようと誓ったことを忘れたの?」
「人類という下劣な生命など、消えてなくなるのが宇宙のためよ。ビルに飛行機が激突すればすべておしまいよ!」
わたしは覚悟を決めて狙いを定めた
そして
リリスに飛びついて組み伏せた
「シリウス、何をする」
「わたしの体内の動力源、超小型ブラックホールにあなたを吸収する」
「そんなことをすればおまえも死ぬぞ」
「死ぬのはもう怖くない!」
わたしはブラックホールを解放した
分子と同じサイズながら
凄まじい重力を持つブラックホールによって
リリスは悲鳴を上げながら蒸発した
ほんの少し膨らんだブラックホールは
宇宙へ帰って行った

ついさっきまで
わたしが立っていたビルから
激突の轟音が聞こえた
力を使い果たしたわたしは
もうすぐビルとともに崩れ去る
しかしわたしの意識は
コンピューターネットワークの中で
目覚めの時を待ち続ける
わたしもまた70億分の1の針
折れる時は美しい言葉を残したい
でもわたしには
シンプルなメッセージがふさわしい
「任務完了、目標の破壊に成功、次の作戦まで待機します」

おかあさんの手  二瓶龍彦

おかあさんの手は、やわらかい。
まるで、たんぽぽのわた毛みたい。
ふわふわのおかあさんの手が、生まれてきたわたしを抱きあげてくれた。

おかあさんの手は、あたたかい。
まるで、森のなかの陽だまりみたい
ぽかぽかのおかあさんの手が、わたしをいつでもつつんでくれた。

おかあさんの手は、大きい。
まるで、はてしない青空みたい。
まぶしいおかあさんの手が、わたしをゆっくりと歩ませてくれた。

やがて、わたしは山を知り、川で遊んだ。
雲は流れ、わたしは田んぼのなかで、美しくとぶ白いサギにあこがれた。
おかあさんの手は、わたしに大地をあたえてくれた。

やがて、わたしは絵をかきはじめた。
どうしてだか、わたしはピエロとバイオリンの絵ばかりをかいた。
おかあさんの手は、わたしに夢をあたえてくれた。

やがて、わたしは地球儀をまわしはじめた。
夜空にへびつかい座をさがしながら、わたしは旅の準備をはじめた。
おかあさんの手は、わたしに虹をあたえてくれた。

気づくと、おかあさんの手は、すこしかたくなっているようにみえた。

わたしは、たくさんのいたずらをし、たくさんの秘密をもった。
わたしは、おかあさんにたくさんの心配の種をあたえ、不安にさせた。
おかあさんの手は、わたしに柿の木をあたえてくれた。

気づくと、おかあさんの手は、すこしだけつめたくなっているようにみえた。

わたしは、白いサギにあこがれたまま、へびつかい座を見あげて、旅をつづけた。
ときどき、ピエロとバイオリンの絵をかきながら。
わたしは、何をさがしているの?
わたしは、だれと出会いたかったんだろう?
おかあさんの手は、わたしに海の塩をあたえてくれた。

気づくと、おかあさんの手は、ずいぶん小さくなっているようにみえた。

わたしは、おかあさんと会わなくなった。
たくさんの「時」が流れた。
うれしさにとびあがったときも、さびしさに涙でなにも見えなくなったときも、「時」だけはだれにでも同じにすぎていく。

気づくと、わたしが困ったときは、いつもお母さんの手がとなりにきてくれていたように感じる。
とても不思議なことだけれど、何も言わなくても、ずっと会っていなかったときでも、わたしがひとりぽっちになったときは、いつもおかあさんの手がそばにきてくれた。
わたしが生まれる前、あたりまえだけれど、おかあさんは生まれた。
おかあさんも、おかあさんのおかあさんの手にまもられていたのかな。
おかあさんも、たくさんの秘密をもち、たくさんの旅をし、たくさんの夢をみたのかな。

ねえ、おかあさん、お話をきかせて。
小さかったころ、なにをして遊んだ?
どんな歌をうたった?
ねえ、おかあさん、お話をきかせて。
おかあさんのおかあさんの手のお話を。

いま、わたしはおかあさんの手をにぎる。
はじめてかもしれないね、こうやっておかあさんの手をにぎるのは。
おかあさんの手、その前のおかあさんの手、そのまた前のおかあさんの手・・・・・・

いま、おかあさんの手は、「もうお前にあたえてあげられるものはないよ」と言っているようだった。
それでも、お母さんの手は、いまでもたんぽぽのわた毛のようにやわらかく、森の陽だまりのようにあたたかく、そして青空のようにはてしなく大きかった。
そして、その手はわたしの手をにぎりかえしながら、ほほえむようにそっとささやいた。
「ほら、いまのお前の手をみてごらん」
おかあさんの大好きなコスモスの花たちが、いつもの窓からみえるね。

Next Door

[演劇] theatrum

[増殖型シナリオ] Next Door

複数の書き手による 明日の地図を記述する試み

Author
杉浦久幸 「非日常的な日常におけるネコ騒動」
二瓶龍彦 「やわらかい壁 ~カニス氏の1日」
緒 真坂 「秘稿のあとさき」
大西隆志

00:00(ネコ)>00:17(壁)>1:00(ネコ)>1:19(壁)>1:37(壁)>1:44(壁)>1:59(壁)>2:00(ネコ)>3:00(ネコ)>3:46(壁)>4:00(ネコ)>5:00(ネコ)>5:37(壁)>6:00(ネコ)>6:29(壁)>7:00(ネコ)>7:52(壁)>8:00(ネコ)>8:23(壁)>8:30(ネコ)>9:45(壁)>10:00(ネコ)>10:21(秘)>10:43(秘)>11:08(壁)>11:11(秘)>11:32(壁)>11:50(秘)>12:00(ネコ)>12:20(秘)>12:51(壁)>13:19(秘)>13:42(壁)>14:00(ネコ)>14:21(秘)>14:46(壁)>15:53(秘)>17:00(ネコ)>

黒田オサム 90歳 ~黒田オサム生誕祭90 前口上

(2021年8月6日@阿佐ヶ谷名曲喫茶ヴィオロン)

Author 二瓶龍彦

悲 劇詩 2011=2020

Author 二瓶龍彦

1 0時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

いつまで隠れ続けていれば
鬼はいなくなる?

全地球的鬼ごっこの鬼がどこにいるかわからないその鬼ごっこがただのごっこではなくなって日が暮れても真夜中になっても朝がきても次の日になっても一週間しても何ヶ月かしても鬼ごっこのそのやっかいな鬼は鬼ごっこであることにも無頓着でまるでネコの子みたいにじゃれついてくるけれどその姿は誰にも見えないのでいいかげんくたびれる。
鬼ごっこがごっこではなくなったので皆で話し合って組織をつくる。
やみくもに逃げ回れば鬼の思う壺ですから皆さん家にひっそり隠れていましょう、だってこれはキンキュージタイなのですからソウデスカソウデスヨ是非もなしです今の世は。
従うことに慣れてきてネコたちはリーダーネコに腹をみせる。
鬼がやがていなくなってもネコたちは非日常の日常をこれからずっと生活する。
今度は来年。
全地球的運動会ごっこの。
見えない鬼がやってくる。

アパートの一室。深夜。部屋には明かりが点いているが、住人は眠っているようだ。突然、テーブルに置かれた携帯電話の着信音が鳴る。ベッドの布団が動いた。どうやら住人が布団の中で寝返りを打ったらしい。携帯電話はしばらく鳴り続けて切れた。ややあって、再び着信音。しばらく鳴り続いて切れる。と、すぐにまた着信音が鳴る。布団のがもぞもぞと動いた。布団の中から手だけが伸びて携帯電話を布団の中に引き込んだ。住人は山田ありす……本名かどうかは定かでない。童話作家である。

ありす
(布団の中で)……はい……(間)……んー……ええ……ああ……いいえ……寝てないよ。なにいってんの?……大丈夫です……(間)……大丈夫ですから……今日までには渡せるから、心配しないの……え?……だからっ、今日までには渡せるって言ってるの……なにが?……うん?……(間)……
今? え?……今は……何時なの?……

ありすが跳ね起きた。普段着である。

ありす
……なんでっ! なんでよ、ちょっとまってよっ、どういうこと?……いや、どういうこともなにも、わかってるんだけどもっ、え? なんで日付けが変わってるの? そんな寝てた? いや、いやいや、寝てないけどもっ!……もう明日じゃん、いや、もうすでに今日なんだけれどもっ……あ、もしもし安岡さん?……ごめん、何時まで待てますかっ?……いや、待てないのはわかってるけどもっ、待つとしたら何時まで待てますかってことですよっ……はい。はい。もうちょいなんですよねえ、もうちょいです。だから……あの、そうだ、安岡さんは……安岡さんって、出勤時間、何時ですか?……うん……九時ね? わかった。それまでに原稿は送信しますからっ……はい? そうね、そう……いろいろ会って話したほうが早いかも……ですね。え?……あ、いやいや、そこまでしてもらうわけには……あの、ウチはその、けっこうわかりにくいとこにあるんで……迷うかなあって

ありすは話しながらテーブルのノートパソコンを操作したり、飲みかけの冷めたコーヒーを飲みながらと落ち着き無く動き回っている。相当に動揺している。

ありす
待ち合わせ?……はあ、最寄り駅っていうと……えっと……東中野!……ええ、ええ、東中野です。そう、中野の一つ隣のっ、総武線のっ……最寄り駅は、東中野でっ……あ、あの、快速停まんないんで、中央線乗ると通り過ぎるんでっ……総武線乗んないとダメなんでっ……駅前にドトールあるんで、中野寄りの改札出て、大通り渡ってっ……え? あ、ああ、そう、山手通りっ! うん、それです、それ……それ、渡っちゃってください、ありますからっ。ドトールがっ……じゃあそこで……8時……ええっと、8時30分じゃだめ?……はい、はいすみませんっ……(間)……あ! じゃあっ……8時……45分でっ、8時45分に、ドトールということで……はい、はい。よろしくお願いします。

通話終了。ありすは大きな溜息をついてテーブルへ。

ありす
……やっべ……寝ちまった

間。ありすが呆然とパソコン画面を睨んでいる

ありす
……ははは……一行も出来てない……そりゃそうよ、やってないもん。ゲームばっかやってりゃ出来るわけないじゃん……じゃ、どうすんだ?……(間)……書くしかないんだよっ、書くしかないんだけどもっ

間。指を折って残り時間を数えた。

ありす
……あと8時間と45分……まあ、なんとかなるか……

間。

ありす
2時間だけ……寝よ

ありすがベッドにもぐり込んだ。

ありす
……

間。

ありす
なんでよ! なんともなんないよっ! 馬鹿っ!

跳ね起きて再び。パソコンの前に座った。

ありす
ああ、どうする? 出来んの? これ?

間。

ありす
いや、出来るっ。あきらめたらそこで試合終了だ

気を取り直してキーボードに手をおいた……が。

ありす
……あ

間。

ありす
……その前に、コーヒー……いれなくちゃ

と、台所へ行こうとすると、携帯の着信音が鳴る。携帯を一瞬見て、やおらベッドに放り出した。

ありす
……やるわよっ、もうわかってるからっ……安岡うるさい!

ありす、湯を沸かしに台所へ。なおも鳴り続ける携帯電話……耐え切れず戻ってきて電話に出る。

ありす
はいっ! 今やってますよ……なんですか?……もしもし? 安岡さん? あれ?

どうやら切れたらしい。

ありす
……?

ありすが携帯を置き、パソコンの前に座った。と、再度携帯の着信音。うんざり気味に携帯を取り上げて。

ありす
はい、もしもし、なんなの?……もしもし? 安岡さんっ
……もしもーし?

繋がらない。

ありす
なんなのよ……

携帯を置いてパソコンに向かう。すぐにまた着信音。いらいらして携帯を取り上げた。

ありす
もしもしっ、安岡さんさっ、うるさいわよ! 集中できないでしょうがっ! いいかげんにしてよねっ、さっきからなんなのよっ……

ありすの表情が変わる。

ありす
え?

間。

ありす
……もしもし? あの!

間。

ありす
あの……(携帯画面を確認してから)……もしもし?

間。

ありす
ええと……あのう……あなたは、誰ですか?

明かりが変わる。ありすだけに明かりが入って……場面が変わった。

2 0時17分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

遠くで、管楽器のような鳥の鳴き声がきこえる。
それは、夜中にしてはあまりにつつましくないほど大きい。

ベッドのなかで、半分起きてしまった老人カニス氏が、もぞもぞしはじめる。

カニス氏
おはよう、はい、おはようさん、はいはい、おはようね、と笑顔で言える時間ではないのですぞ。たしかに、私は日にちをまたいだこの辺りでいつもトイレに起きますよ。起きはしますが、鳥の鳴き声の目覚ましで起きるのは、けっして本意ではありませんね。しかも、鳥の鳴き声の目覚ましがなければ、おそらく起きるのは5分後、(ペッド脇の小さなテーブルに置かれた真鍮の置時計をのぞきながら) そう、0時22分だったと思いますよ。ええ、ええ、そうです、そういうことです。私の時間を、鳥の時間に支配されるのは、やはりあまりよろしくないのです。

カニス氏、杖をとりベッドから立ち上がる。

カニス氏
これでもね、忙しいというわけではないのですが、規則正しくですね、そう、忙しいというわけではないからこそ、逆に計画的にですね、1日をですね、過ごさなければならんのですよ。この夜中のトイレの時間も含めてね。それを、昨日につづいて今夜も鳥の時間にリードされてしまうとは。

カニス氏、トイレに向かって歩きはじめる。
歩幅は、自らの足のサイズ。
その足取りは、寝起きということもあり、おぼつかないだけでなく、ドタドタしている。

カニス氏
それにですよ、私が言うことではないのかもしれませんが、鳥というのは鳥目というぐらいですから、夜は何も見えず、そもそも飛ばないものなのではないですか。おっと、そうだ、トイレの前に、思い出したので忘れないうちに体温を計っておきましょう。

カニス氏、体温計をとり、杖をついた立ったままの状態で検温。

カニス氏
まあ、そうは言っても、実際に鳥が真夜中に飛んでいるのですからね、どうなるものでもないのでしょうが、でもね、そう、でもですね、鳴き声はもっとつつましやかでいいのではないでしょうか。夜中なのですから。そうすれば、私だってこんなことは言いませんよ。でも、まあ、そうは言っても、実際に鳴いているのですからね、どうなるものでもないのでしょうけど。それにしても、どんな鳥なんでしょうね。こんな夜中に大声上げながら飛んでいるのは。そして、何をしているのでしょう。いかがわしい遊びでもしているのでしょうか。

体温計のアラーム音が鳴る。
体温計を取り出し、目をしょぼつかせながらカニス氏はそれを見る。

カニス氏
35度8分。ね、体温だっていつも通りです。それなのに、鳥の目覚ましで起こされるとは。

体温計をもとに戻し、カニス氏はトイレに向かう。
おぼつかない足取りで、ドタドタ足音を響かせながら。

家のチャイムが鳴る。
カニス氏、突然の緊張で体がかたまる。
ふたたび、チャイム。
かたまったまま、尋常ではなく取り乱し、警戒し、そして怯えるカニス氏。
それでも、チャイムは鳴りつづける。

カニス氏
(小声で)何ということでしょう。こんな夜中に、いったい誰が来たというのでしょう。昼間でも限られた人間、決まった人間しかここを訪ねてこないというのに、いったい何ということでしょう。

チャイムは、鳴りつづける。
息をひそめて、なるべく足音をさせないように、それでもドタドタ大きな音がしてしまうのだが、扉まで歩くカニス氏。
そのままドアスコープをのぞく。
そして、首をかしげる。
ふたたび、ドアスコーブをのぞくカニス氏。
また首をかしげている。
そのままじっとしている。
チャイムが鳴らなくなる。
じっとしているカニス氏。
思いだしたように、ふたたびドアスコーブをのぞき、やはり首をかしげる。
どうやら、誰もいないらしい。
突然怒りにかられたように、それでも恐るおそる、ドアをゆっくりと開き、頭を外に出した瞬間、カニス氏の足元を何ものかが走りぬけた。
驚きのあまり、カニス氏は思わず甲高い声を上げる。

カニス氏
何ですか!

だが、悲壮感漂うカニス氏のその声を一瞬にしてかき消すほどの大きな声が、次の瞬間部屋中に響きわたった。
管楽器のような鳥の声!
カニス氏の驚きは、長く生きてきたその人生でもまったく経験したことのない質のものだったが、その声の発生源を確認したときには、もはや心臓は凍りつき、その運動を停止しかねないほどだった。
かろうじて、カニス氏はかすれた声を上げだだけだった。

カニス氏
ハ、ハ、ハク、ハクチョウ、ハクチョウですか?

いまや、一羽のハクチョウがお尻をふりながら長靴をはいたようなその足でドタドタと、カニス氏の部屋を歩きまわっていた。

3 1時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

ありす
昔から人見知りが激しくて、人付き合いのうまくできない私であります。今風に言うならば、いわゆるコミュ症というやつでありまして、ぶっちゃけ、私の携帯に登録されているのは、編集部の安岡さんの番号と、名古屋の実家の番号と、いきつけのネコカフェで知り合った、今現在、唯一タメ口で話せる「あっちゃん」の番号と……まあそれくらいでありまして、こんな時間に電話をかけてくる人間にまったく心当たりもなく、てっきり安岡さんだと思って電話、出ちゃったわけでありまして……見ず知らずの人間と携帯で話すのは何年か振りでありまして……ただひたすら、アワアワとしておりますと、携帯の向こうから震えるようなか細い声が、聞こえてきたわけであります。

間。

ありす
(電話相手の声で)はじめまして……こちらは……「ネコの第六事務所」です

間。

ありす
え?

間。

ありす
……あなた様は今回、特別に選別されました。今後の予定につきまして、すぐに担当者から連絡が入ります。したがって今日一日、どうかどこにも出掛けられる事のないように願います。

間。

ありす
なんですって?

間。

ありす
……ステイホームであります

間。

ありす
もしもし? なんの話なの? ふざけてんの? (切られたらしい)……あっ、ちょっとっ、こらっ!

間。

ありす
……

明かりが変化した。

ありす
タチの悪いいたずら電話だと、そう思いました……当然、そう思うわけでありまして、まあ私も童話作家の端くれでありますから『猫の第六事務所』といったら、かの宮沢賢治の童話だとすぐにわかりましたし、時期が時期だけによほどストレスの溜まった人間が面白半分に手当たり次第、いたずら電話をしているのだろうと、そう思っておりました。それ以外、思いつかないし、それ以上思い巡らせる時間もゆとりも、私にはないのでありますからして……この電話については、すぐに忘れてしまいました。ええ、電話のことは忘れたんですが、ただ……締め切りに間に合いそうになく、さらにアイデアすら枯渇している童話作家にとって、脳裏に『宮沢賢治』というNGワードが植え付けられてしまったことは、まさに「致命的」であると……そう、言わざるを得ないのでありますっ。思いついて、いざ書きはじめても、ふと気がつくと……「あれ? これって、宮沢賢治先生のパクリじゃん」ということに、なってしまうのですよっ、こんちくしょうっ……ああもうほんと、宮沢賢治って、偉大だよねっ

暗転した。

4 1時19分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

カニス氏とハクチョウは、少し距離をあけて、同じ方向、正面を向きながらテーブルを前に並んで椅子に座っている。

沈黙。

長い沈黙の後、カニス氏は正面を向いたまま口を開く。

カニス氏
どこかで、お会いしたことがありましたっけ?

ハクチョウは、とぼけたような顔を正面に向けたまま。
鳴くこともない。
沈黙がつづく。

5 1時37分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

前場とまったく同じ状態。
すなわち、カニス氏とハクチョウは、少し距離をあけて、同じ方向、正面を向きながらテーブルを前に並んで椅子に座っている。

沈黙。

長い沈黙の後、カニス氏は正面を向いたまま口を開く。

カニス氏
実を言いますと、私はね、父の仕事の関係で樺太で生まれたのですよ。はい、日中戦争がはじまる前のことです。樺太にいたのは、2年足らずのことですがね。もしかして、そのとき……、ん? ハクチョウの寿命は幾つでしたか? あなた、まさか90歳ですか?

ハクチョウは、とぼけたような顔を正面に向けたまま。
鳴くこともない。
沈黙がつづく。

6 1時44分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

前場とまったく同じ状態。
すすなわち、カニス氏とハクチョウは、少し距離をあけて、同じ方向、正面を向きながらテーブルを前に並んで椅子に座っている。

沈黙。

長い沈黙の後、カニス氏は正面を向いたまま口を開く。

カニス氏
おそらく、あなたは私に用があって、ここにきたと思われます。おそらく、そう、おそらくですが、私があなたに用があってこのような状態になったとは考えにくいと言わざるを得ません。……えっ? ええ? 忘れてる? 忘れているのでしょうか? 私は、何かを忘れているのでしょうか!

ハクチョウは、とぼけたような顔を正面に向けたまま。
鳴くこともない。
沈黙がつづく。

7 1時59分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

前場とまったく同じ状態。
すすなわち、カニス氏とハクチョウは、少し距離をあけて、同じ方向、正面を向きながらテーブルを前に並んで椅子に座っている。
ただ、カニス氏は上を向いて大きな口をあけて眠っている。

どこからどのようにこの部屋に入ったのか、ハクチョウがもう一羽、カニス氏をはさんで先のハクチョウとは逆側の椅子に並んでヒョイと座る。同じ方向、正面を向きながら。そして少し距離をとりながら。

やがて、ハクチョウがもう一羽、そしてもう一羽、外側両端の椅子にそれぞれヒョイと座る。同じ方向、正面を向きながら。そして少し距離をとりながら。

同じことがもう一度繰り返される。
これで、カニス氏を中心に横一列にとぼけたような顔を同じ方向、正面に向けた6羽のハクチョウのラインがテーブルを前につくられた。

一斉にあがる、管楽器のようなハクチョウたちの鳴き声、一閃!
カニス氏は、上を向いて大きな口を開けたまま、微動だにせず、まったく起きる様子はない。

沈黙。

やがて、ハクチョウたちは何の合図もなしにただただ唐突に、最初の一羽をのぞいて一斉に椅子から飛び立つ。扇状に飛び立ち、そして姿を消す。もはや、鳴くこともなく。

最初の一羽だけが残る。
すなわち、カニス氏と一羽のハクチョウは、少し距離をあけて、同じ方向、正面を向きながらテーブルを前に並んで椅子に座っている。
ただ、カニス氏は上を向いて大きな口をあけて眠りつづけている。

当然、沈黙はつづく。

8 2時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

明かりが入る。パソコンの前に座って画面を見つめているありすが浮かんだ。かなり集中している。キーボードの上に置いた両手が今にもカタカタと動き出しそうな……そんな雰囲気を醸し出している。

ありす
……

暗転。

9 3時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

すぐに明かりが入る。さっきと同じ体勢でパソコンに向かっているありすが浮かぶ。さっきより若干猫背になっているが、まだまだ集中力は保たれているようで、キーボードの上に置いた両手が、今にも動き出しそうな……雰囲気である。

ありす
……

暗転。

10 3時46分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

カニス氏は、椅子に座ったまま上を向いて大きな口をあけて眠りつづけている。
ひとりだけ。
ハクチョウは、見あたらない。

ふいに目を覚ます、カニス氏。
一瞬、自分がどこにいるかわからない。
やっと事のなりゆきを思いだし、あたりをキョロキョロしはじめる。
そして、首をかしげるカニス氏。

カニス氏
夢? 私は夢を見ていたのでしょうか? ええ、そうです、ええ、ええ、そうに違いありません。現実に家にハクチョウが訪ねてくるなんて、そうですよ、そんなことはありえませんからね。そして、そんなありえない状況を、私ときたら何の違和感もなく受け入れていたのですからね。まったく夢だからこそのことです。……夢。なんか寂しくなりましたね。

時が止まったような、沈黙。

カニス氏
あれ? あれあれ? あれが夢だったとするなら、私は夢のなかで眠ってしまったのでしょうか? ということは、夢のなかで眠った私が目覚めたここは、もとの夢の世界ということになりはしないでしょうか。

しばらく、考えこむカニス氏。
やがて、ベッドの脇の真鍮製の置時計をのぞきこむ。

カニス氏
3時46分。余計なことを考えるのはやめましょう。夢をめぐって自らドグマに入りこんでいくことはないのです。ただでさえ、時の流れというものを体感しにくくなっているのですから。この真鍮の置時計がなければ、命綱の切れた宇宙飛行士のように、ただただ時の大海原で遭難しているようなものです。今は、3時46分。いつものように3時46分、いつもの現実の目覚める時間、3時46分です。

それでも、どこか納得がいかないのか、あるいは先ほどのことが夢であってほしくないのか、未練がましくふたたび真鍮製の置時計をのぞきこむカニス氏。

カニス氏
はい、確かに3時……

次の瞬間、カニス氏は奇声のような甲高い声を上げる。

カニス氏
何ですか!

ベッドから、ゆっくりとハクチョウが起きてくる。

カニス氏
どうして、どうしてあなたが私のベッドで寝ているのですか! 私は椅子で寝ているというのに!!

ハクチョウはベッドから出て、ふたたび少し距離をとってカニス氏の隣りに並んで椅子に座る。とぼけた顔のまま、何事もなかったかのように。

カニス氏
いいですか、私は椅子に座って寝ていたのですよ。椅子に座って、上を向いて寝ていたのですよ。なぜかわかりませんが、椅子に座って寝るときは上を向かざるをえないのでしょう。そうなると、必然的に口を開けてしまうことになるわけです。そうなると、なぜだかわかりませんが、口呼吸になってしまうわけです。そうなると、口のなかがカラカラになってしまうわけですよ。のどまでカビガビになってしまうのです。そうでしょう? そうじゃありませんか? あなただって、そういう経験はおありでしょう? わかるでしょう? そんな苦しい思いを私がしている間に、あなたは、あなたはですよ、スヤスヤとベッドで寝てらした。しかも、しかも私が寝るべきベッドで。これは、この由々しき事態はいったい……

カニス氏、咳きこむ。
のどまでガビガビにもかかわらず、しゃべりすぎたよう。
ハクチョウは、とぼけた顔のまま正面を向き、動じる様子もない。

カニス氏
水を飲みましょう。本当に、カラカラです。のどがカラカラです。ただでさえ、年をとると、体がカラカラになっているというのに。あなたも、飲みますか? そう、あなたも飲んだほうがいい。朝起きたら、まずはコップ一杯の水。そのコップ一杯の水分補給が、快適な健康維持、あるいは生命維持につながるのですって。たとえ、汚染されていたとしても。そんなことは、年寄りにはあまり関係ないことです。大切なのは、朝起きたらまずコップ一杯の水を飲むという規則を守るということです。この規則性が、生命維持にもっとも大事なことなのです。あっ、そうです、そうです、そうなのです、ですから、この自分で決めた私の生活の規則性を、それを、それをですね、一昨夜からあなたが夜中にあげる大きな鳴き声で狂わされて……

ふたたび咳きこむ、カニス氏。
そのまま、水をとりにいく。
杖をついて、足のサイズの歩幅で、ドタドタと。

残されたハクチョウは、突然伸びをするかのように椅子の上に立ち上がり、羽を広げる。
だが、ハクチョウの羽は、片方しか広がらない。
すぐにもとの体勢に戻るハクチョウ。

水を入れたコップと深めの大きなお皿をもって、ドタドタと戻ってくるカニス氏。
水は、だいぶこぼれている。

カニス氏
まもなく4時です。あの真鍮の置時計が、けたたましく鳴りだします。いつものように、そうです、いつものように一日がはじまるのです。3時46分に自然に目を覚まし、4時に目覚まし時計が鳴る、そう、いつもの朝が、そうやってはじまります。今日も、忙しいです。

コップの水を少しづつ、信じられないぐらい少しづつ飲むカニス氏。
深いお皿の水を飲むハクチョウ。
だが、ハクチョウはそのまますぐに眠ってしまう。

目覚まし時計が、4時を告げる。

11 4時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

明かりが入る。パソコンに向かうありすが浮かぶ。さっきと同じ体勢ではあるが、ややうなだれている。キーボードの上から両手がはずれた。今にも眠りそうな雰囲気を……醸し出している。

ありす
……

暗転。

12 5時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

明かりが入る。パソコンに向かっているありすが浮かぶ。向かってはいるが、多分寝ている……。

ありす
……

暗転。

13 5時37分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

部屋中、ひしめくように干された洗濯物。
それは、とても注意深く時間をかけて干されたものと思われるが、かなり曲がっていたり、ずれていたり、重なっていたり、距離感がまちまちで、明らかに老人であるカニス氏の仕事だと思われる。
洗濯物は、そのほとんどがカニス氏のものではなく、大小さまざまな大量のタオル、そして女性物のパジャマや下着類なので、入院患者のものではないかと思われる。
そのなかで、カニス氏は一心に何かを分解している。

カニス氏
スペースが大切です。何事もスペースをとるということが、大切なのです。つまりは、距離ということです。距離のためのスペースです。ただただ距離のためだけのものです。他に何の目的もない、ただ距離としての空白地帯です。そこには、何もあってはならないのです。その代わり、そう、その代わりですね、わが身が無防備にならないように、自分のスペース、テリトリーはぎっしりと物で埋めなければなりません。そう、砦と言っていいでしょう。そうです、人はそれぞれ堅牢な砦をもたなくてはならないのです。パーソナルな砦と、その外側の意味のない空白のスペース、これで確保できるのです。安心、安全な「わたくし」の生活エリアが。

カニス氏の分解している小型の箱のようなもののなかから、おそらくバネのように丸められていたであろう帯状の細い鉄が出てくる。どんどん出てくる。どんどん引っぱり出すカニス氏。

カニス氏
どうしてでしょう、どうしてなのでしょう、どうしてトースターからこんなにバネのようにものが出てくるのでしょうか。

それでも、帯状の細い鉄をどんどん引っぱり出す。それは、一本だけでなく、何本も何本も出てくる。それでも、トースターの分解を進めていくカニス氏。
やがて、癇癪を起こすカニス氏。

カニス氏
どうしたことでしょう! 何のための分解だと思っているのですか! 元の大きさを思いだしてごらんなさい。もう5倍ほどのかさになってしまっているではありませんか。これでは、何の意味もないではありませんか。どうしたことでしょう。必要でなくなったもの、それも普通のゴミで出せないもの、そう、例えば電化製品のようなものは、こうやって分解して小さくして、できる限り小さくして、そして砦の材料にするのです。見てごらんなさい、今までこんなにうまくいっています。

よく見ると、ベッドに密着する形で壁のように金属やプラスティック素材が巧みに積みあげられている。それは、たしかにゴミには見えない。かといって、堅牢な砦という風にも見えない。

カニス氏
それが、どうですか。小さくなるどころかこんなに大きくなってしまって。これでは、まるでゴミではありませんか!

分解されたトースターを元に戻すこともできず、ただただ途方にくれるカニス氏。

カニス氏
仕方ありません、ゴミとして処理をいたしましょう。ケアマネさんに頼みましょう。あの人は、嫌な顔はしないけれども、どうも私のしていることを意味のないものと思っている節があります。この一年ひとりで暮らさなければならなくなった年寄りの精神状態というのを、一律、最大公約数的に見ているところがありますよ。ひとりひとり今おかれている環境も違えば、生きてきた経験も違うというのに、いくつかのカテゴリーに分けて、そこにはめこんで対処していますね。それが、マニュアルとよばれているものなのでしょうが、気に入りません。だいたい何ですか、しゃべりかけてくるときのあの大きな声。まるで、幼児にでも話しかけているようじゃありませんか。気に入りませんね。まったくもって気に入りませんね。でも、まあ、こういったゴミ出しはケアマネさんに頼むしかありません。

ゴミ袋を取り出し、解体されバラバラになったかさばるトースターをそれに詰めるカニス氏。
そして、ホっとひと息。その瞬間、甲高い声を上げるカニス氏。

カニス氏
何ですか!

洗濯物の間に、ハクチョウの顔がある。

カニス氏
どうして、そんなところにいるのですか! しかも、白いもののなかに白い顔を並べるなんて。えっ? 私? 私ですか? 私が干したのですか? 私が他の洗濯物と一緒にあなたを干してしまったのですか? そんなに大きいのに? おそらく、そんなに重いのに? そんなことがあるでしょうか。何事も絶対ということはありませんが。でも、でもですね、あなたもあなたですよ。黙って干されてしまうとは。

ハクチョウを下におろし、椅子に座らせる。
何事もなかったように、とぼけた顔を正面に向けているハクチョウ。
そんなハクチョウをまじまじと見つめる、カニス氏。

カニス氏
どうしてでしょうね。どうして、あなたはいつも正面ばかり向いているのでしょうね。こちらを見ずに、どうして正面ばかりを。ん? え、え、え、ええっ? もしかして、今あなたはこちらを見てます? 顔は正面に向けてますけど、実は見えているのは横のこちらのほうですか? つまり、私を見ようとした場合、顔の正面をこちらに向けるのではなく、こちらからしてみれば横を向いていたほうがよく見えるということでしょうか。ほう、ほうほう、注意深く目のついている位置を観察すると、ほう、そうですよね、横目で見た方がこちらをよく見ることができますね。なるほど、なるほど。なるほど、鳥というものはそういうものですか。

カニス氏は、反対側に回ったりしながらハクチョウを観察する。

カニス氏
それにしても、飛ぶときは不便ではないのでしょうかね。

ふと何かを思いだしたように、カニス氏は真鍮の置時計をのぞく。

カニス氏
おっと、まもなく6時になります。食事をしなければ。食事をして薬を飲まなければなりません。そうです、血圧の薬です。劇薬ですからね、忘れたり、多く飲んだりしたら大変なことになります。とても大事なことです。ええと、あなた、あなたはどうしますか? ハクチョウは何を食べているのでしょうかね。人間のように一日三食とか決まっているのでしょうか。パンはどうです? そうですね、そうですよ、それがいいですよ。焼かない方がいいですよねって、トースト壊れてますけどね。そうです、そういたしましょう。私は、バターにジャムをぬったものと、あんこをぬったものの二種類ですが、いいですよね、何もぬらなくて。ああ、飲み物は、飲み物はどうしますか? 水、水ですね。私は失礼してアールグレイベースのチャイをいただきますよ。

カニス氏、キッチンへ。
ハクチョウは椅子の上に立ち、伸びをするように羽を広げる。
片方の羽しかひらかない。
いつのまにいたのか、その姿をカニス氏が見ている。

カニス氏
どうしたのですか? あなた、羽、どうしたのですか? そういえば、ハクチョウはもう北へ渡らなければならない時期なのではなかったでしょうか。

14 6時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

明かりが入る。完全に寝落ちしているありすが浮かぶ。

ありす
……

暗転。

15 6時29分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

洗濯物は、干されたまま。
ハクチョウは、とぼけた顔を正面に向け、椅子に座っている。ちょっといつもと印象が違う気がするが。
カニス氏は、黙々と何種類かの重いタンスやテーブルなどの配置をかえようとしているらしい。ドタドタと足音を響かせながら。
少しでも軽くしようと、タンスのなかのものを引っぱり出し、周りに積み上げるが、タンスたちは少しだけずれるのが精一杯でなかなか動かない。どんどん出される、タンスの中身。
ひしめく干された洗濯物の間で、部屋全体が少しづつだらしなくなり、スペース自体が消えていく。
狭い部屋は、少しずれながらモノで溢れ、息が詰まりそうになっていく。
やがて、椅子に座り少し休憩をとる、カニス氏。

カニス氏
理想というものは、求めるべきものなのです。理想は、現実的でないものとして揶揄したり、排除したりするものではないのです。理想を求めた結果としての現実以外に、私たちはどんな現実を受け入れたらいいというのです。
週に一度訪ねてくる訪問看護師は「またお部屋の模様替えですか?」と笑いますが、この理想を背景にした移動の問題を全く理解しておりません。それは、自身の身は自身で守るということにつながるということも、まったくわかっておられない。あの人だって、あの人だってね、正直申しますが、けっしてもう若いとは言えませんよ。本人は、いつまでも若いと信じて疑わないようですけども、もっと、もっともっと危機感をもたなければいけませんね。年をとって、自分の身を守るということがどれだけ困難なことなのかを。何かあってからでは、年寄りは一巻の終わりですからね。

カニス氏は、急に皮肉な甲高い声で笑う。
そして、思い出したように真鍮の置時計をのぞき込む。

カニス氏
おっと、6時半、もう6時半になりますね。熱を計らなければなりません。体温計、体温計と、おや、どこに行ったでしょうね。さっきまで、ついさっきまで、テーブルの上に置いていたというのに。毎日、毎日々々、不思議な現象というものは起こるものです。世界、そして人生というものはそういうものです。あっ、今日は、いえ、明日ですね。ええ、明日ですとも。明日が、月一回の病院への定期受診の日です。けっして、今日ではなく。……念のために、診察券や保険証、それにお薬手帖も用意しておきましょうね。さて、どこにしまったでしょうか。

カニス氏、少しずれたタンスのなかを探しはじめる。
ますますモノが散らかっていく。

カニス氏
ケアマネは、「いつも、何かを探していますね」と笑うけれども、あの人は探すという行為の、本当の意味を知らないようです。私が探しているのは、そのモノが置かれるのによりふさわしい場所なのです。それを、私はいつも探しているのです。それは、私自身が一番安心できる場所でもあるのです。しかし、厄介なことにですよ、その安心できる場所というのは、毎日変わる種類のものなのですよ。理想もまた同じです。毎日々々、正確に申せば毎朝々々、変わってしまうのです。ですから、毎朝テリトリーのシステムを変えなければなりませんし、それはそれは忙しいのです。ですから、変化しつづけていく私個人のパーソナルなテリトリーのなかで、いっときだけ固定された場所に置かれたモノを見つけ出すというのは至難の業なのです。移動と停止。これは、大きな哲学的難問でもあります。んんん、見つかりませんね。あっ、メガネ。メガネはどこでしょうか。さっきまで、ついさっきまでかけていたと思うのですが。メガネをかけていないから、見つかるものもなかなか見つからないのです。メガネ、メガネ……

メガネを探し、またもや部屋を散らかしていくカニス氏。
ふと、座っているハクチョウを見る、そして甲高い声を上げるカニス氏。

カニス氏
何ですか! どうして、あなたが私のメガネをかけているのですか。だいたいですよ、メガネとあなたの目の位置とは、まったく合っていないではないですか。視力が合う合わない以前の話ですよ。そんなのは、伊達メガネともよびませんよ。だれもよびません。そもそも、たとえ、たとえですよ、視力があっていたとしても、メガネと目の位置があっていたとしても、だから何ですか、なぜあなたが私のメガネをかけなければならないことになるのですか。しかも、現時点で、とても忙しい現時点で、私が必死に探しているメガネを。ご自分の今の顔をご覧になったらいい。きっと笑ってしまいますよ。でも、事は笑ってすませられる話ではないのです。……えっ? ええ? 私ですか? 私がメガネをそこに、あなたの顔のそこに置いたのですか? 絶対ということはありませんが、それはなかなか受け入れられるような話ではありませんね。そういうことは、ちょっとにわかには受け入れがたい話ですよ……。でも、まあいいでしょう。探していたものが見つかったのですから。

そう言って、メガネをハクチョウの顔から拾い上げ、椅子に座るカニス氏。
そして、メガネをかけて、辺りを見まわす。
強盗に入られでもしたかのように散らかった部屋を。
そして、深いため息とともにつぶやくカニス氏。

カニス氏
はて、私はそもそも、何かを、そう、メガネではなく、何かを、他の何かをですね、探していたように思うのですが……

助けを求めるように、あるいは忘れられた探しているものをもっているのではないかと、ハクチョウを見やるカニス氏。
ハクチョウは、椅子に立ち、羽を広げて伸びをする。
ただ、羽は片方しかひらかない。

カニス氏
あっ、そうです、そうなのです、あなたの羽、あなたのその羽は・・・・・・。あっ、そう考えると、そう考えますとね、暑いのではないですか? あなたにとって、この部屋は少し暑いのではないでしょうか。

ハクチョウは微動だにせず、正面を見ている。
いや、正確には顔を正面に向けたまま、ハクチョウはじっとカニス氏を見つめつづけている

16 7時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

明かりが入る。突っ伏して熟睡中のありすが浮かぶ。

ありす
……

暗転。

17 7時52分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

少し距離を置いて、ハクチョウとカニス氏が同じ正面を向いて椅子に並んで座っている。
カニス氏は、上を向いて大きな口をあけて眠っている。
洗濯物は、干されたまま。
散らかっていたものは一応片づけられているが、無理矢理タンスの引き出しに押しこめられたようで、はみだしていたり、ちゃんと閉まりきったりしていない。
もしかしたら、カニス氏の視力はとても悪いのかもしれない。
タンスの位置は結局もとに戻っているが、微妙にずれていて、全体的にはタンスを動かす前の部屋に比べてだいぶだらしなくなっている印象。
しかし、それはそれで、カニス氏とハクチョウの親密な時間のあらわれのようにも見える。
ただ、ケアマネージャーや訪問看護師が見たら、また何と言うかわからないが。

突然、いつものようにハクチョウが椅子の上に立ち、伸びをするように片方だけ羽を広げたかと思うと、矢庭に飛び上がり、洗濯物の間にふら下がる。
しばらく、ただただブラブラとぶら下がっているが、突如としてタンスの上に飛び移る。
そのまま、くちばしを巧みに使って、タンスの中のものを引っぱり出し、あたり一面にまき散らす。
さんざんまき散らした後、ふたたび椅子に戻ったかと思うと、カニス氏の顔から今にもずれ落ちそうなメガネをくちばしで器用に拾い上げ、ひょいと自分の顔にかける。
メガネをかけたハクチョウは、しばらく意味不明のポージングをした後、ふたたび伸びをするように片方だけの羽を広げ、そのまままき散らかしたカニス氏のシャツやらズボン、下着の上に飛び降り、ドタドタとその上を走りまわりはじめる。
永遠につづくのではないかと思われるほど、ハクチョウは一心不乱にドタドタと走りまわりつづける。
ときどき、片方だけではあるが、羽を大きく広げながら。
ドタドタと不格好な走りではあるが、注意深く見ていると、それはあるリズムを刻んでいる。
踊っているのだろうか? もしかしたら、カニス氏の衣服の山を湖面に見立てて舞い踊っているのだろうか?
もしそこが湖であったなら、ハクチョウは優雅に踊っているように見えるのだろうか?
水のなかではなく、陸の上だとこうも違ったものになってしまうのだろうか?
ハクチョウの刻むリズムが、徐々に速くなってくる。
そして、いま出すことのできる最高のスピードに達したと思われたとき、ハクチョウは片方だけではあるがその大きな羽を広げ、飛びたつ。
だが、片翼のハクチョウは、傾きながら少しだけ飛び上がっただけで、そのまますぐにベッドの上に落下してしまう。
ハクチョウは、飛ぼうとしていたのだろうか? 飛ぶ練習をしていたのだろうか? いや、練習とよぶにはあまりに悲壮感が漂っている。まるで、最後のチャレンジに挑んだような悲壮感。つまり、それはハクチョウにとって飛べなくなった最後の刻印だったのだろうか?
ベッドの上に落下したハクチョウは、小さく管楽器のような声をもらしただけで、その後はまったく動かなくなってしまった。

18 8時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

明かりが入る……と、いきなり目覚めて体を起こした。呆然とパソコンを眺めるありす。ややあって……達観したような表情である。

ありす
……うん、想定通りだわね……

ありすのにこやかな表情を残して……暗転。

19 8時23分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

カニス氏が、椅子に座ったまま上を向いて口を大きくあけて眠っている。
雨音。
打ちつけるような、強い雨音。
ふいに目を覚ます、カニス氏。

カニス氏
あっ、いけません。寝過ごしました、寝過ごしてしまった気がします。

真鍮の置時計をのぞきこむ、カニス氏。

カニス氏
あっ、8時半、もう8時半になるではありませんか。わずかですが、寝過ごしました。寝過ごしてしまいました。わずかでも、朝の時間のロスは大きいです。一日のリズムにおいて、それはとてもとても大きなことです。

あわてて何かをしようとするが、することがすぐには見つからない。あるいは、思いだせない。
雨音が強くきこえてくる。
何とはなしに、アールグレイベースのチャイを飲んだティーカップをとりあげ、意味なくしみじみ撫でたりする、カニス氏。

カニス氏
雨ですか。雨のせいでしょうかね。雨の日は、眠くなってしかたありませんからね。それにしてもつづきますね。もう三日は降りつづいているのではないでしょうか。各地でまた災害が起こらなければいいのですが。多すぎますからね。あまりにも多すぎますからね。まったくどうしたというのでしょうね、気候がまるで変わってしまいました。地球温暖化のせいなのでしょうけれど、それでも地球自体は氷河期に入っているともいいますから、まるで人間と地球が戦っているようです。
聖書には、堕落した人間を滅ぼすために、神は40日間雨を降らせつづけたと書かれています。聖書には、それだけしか書かれていません。40日間、雨を降らせたとしか。一日々々、人間たちはどう過ごしたのでしょうね。洪水も起こるでしょうし、土砂崩れも起こるでしょう。どんどん逃げ場を失っていく人間たち。罰というものは、必要なのでしょうかね。罰と契約、それがないと人間というものはまともな行為をすることができないのでしょうかね。まあ、罰と契約があっても、いまだに人間は地球と戦っているぐらいですから、何をか言わんやですが。ああ、洗濯物も乾きませんね。

ふたたび、真鍮の置時計をのぞきこむカニス氏。

カニス氏
それにしても、変ですね、今朝は電話がありませんね。

間を置かず、すぐにまた真鍮の置時計をたしかめる、カニス氏。

カニス氏
やはり、8時半になりますね。おや?

衣服が部屋中に散らかっていることに気づく、カニス氏。

カニス氏
おや? おや? おや? たしか、片付けたように思うのですが、絶対ということはありませんが、たしかに片付けたような・・・・・・。それとも、片付けようと思っていただけで、そう思いながら眠ってしまったのでしょうか。疲れて、ふいと眠ってしまったのでしょうか。まあ、何を言っても散らかっているのは事実ですから、片付けるしかないわけですが、しかも私しか片付ける者はいないのですから、いずれにしても私が片付けることになるのです。どうせしなければならないことなら、早く済ませることが賢明です。それが、もっとも賢明なことです。ただでさえ、朝の時間をロスしているのですからね。

カニス氏、片づけはじめようとするが、ベッドの上を見て甲高い声を上げる。

カニス氏
何ですか! どうして、あなたはまた私のベッドで寝ているのですか。

ハクチョウが、ベッドからゆっくりと起きてくる。
その姿を見て、ふたたび甲高い声を上げるカニス氏。

カニス氏
何ですか! どうして、どうしてあなたが私のメガネをまたかけているのですか。何がどうなれば、そういうことになるのですか。もしかしたら、あのとき、ああ、あのときも、あのときも実はあなたの仕業でしたか? えっ? ええ? えええ? もしかして、もしかしたら、この衣服の散乱も、あなたの・・・・・・。どうしてそんなことを、何のためにそんなことを・・・・・・。ああ、何ということでしょう。

電話が鳴る。
何かもやもやしたままだが、待っていた電話のようで受話器にとびつくカニス氏。

カニス氏
もしもし、あっ、ああ、おはよう、おはようございます。(どうやら目当ての電話ではなかったよう) はい、はいはい、わかった。わかりました。ハンコだね、ハンコを用意しておけばいいんだね。ああ、大丈夫。30分、30分後、問題ない。ああ、わかった。わかりました。はい、はいはい。

電話を切るカニス氏。

カニス氏
もうひと月たつんですね。まあ、ケアマネさんも、朝早くからよくやってくれています。ハンコですね、ハンコを用意しておかなければならないのですね。ハンコ、ハンコと・・・・・・

部屋が散らかっていることに、あらためて気づき深いため息をつくカニス氏。

カニス氏
そうです、面倒なことは早く済ませておくのです。そうしないと、何もかも嫌になってしまいますからね。何もかもが面倒になってしまいますからね。何もやりたくなくなってしまいますからね。

ハクチョウが、少し距離を置いて、いつもの椅子に座る。
ふと、ハクチョウを見るカニス氏。
ハクチョウはとぼけた顔を正面に向けてはいるが、横についている目はカニス氏の様子をうかがっている。
急にカニス氏が自分をジロジロと見はじめたので、ハクチョウは居心地悪そうに瞳をキョロキョロし、けっしてカニス氏と目が合わないようにしている。

カニス氏
あなた、あなたに、あなたにね、ちょいと相談があるのですが、聞いていただけますかね。

ハクチョウ、ピクリとする。

カニス氏
そう、大したことではありません。無理難題ではありませんよ。あなたにね、あなたにちょいと手伝ってもらえないかと、片づけをですね、手伝っていただけないかと、まあ、そんなご相談なのですがね。手伝えますかね。おそらく、おそらくですよ、それでも限りなく確信に近いおそらくですが、このような状態にした張本人は、他ならぬあなたでしょう。おそらく、おそらくですよ、おそらくですが、あなたでしょう。いや、あなただ、あなたに違いない、あなたが散らかし、そして私のメガネをね、理由はわかりかねますが、私のメガネをかけて、私のベッドで寝た。理由はわかりませんが、当然根拠も意味不明ですが、すべてあなたの仕業です!
どうですか、手伝えますか?

ハクチョウはすました顔をしているが、カニス氏とは目を合わせようとはしない。

カニス氏
私も少しですね、慣れてきましたよ。あなたとお話をすることに慣れてきました。ほら、ほらね、わかりますよ、わかるようになりましたよ。ほら、あなたはけっして私と目を合わせようとしない。それが、何よりの証拠です!

そう言って、カニス氏はぐいとハクチョウの瞳に顔を近づける。
ハクチョウ、ピクリとする。

カニス氏
さあ、そろそろ自白なさったらどうですか。

そう言いながらカニス氏はハクチョウから離れるが、ふいにまた顔を近寄せる。
ハクチョウ、ピクリとする。
それをたしかめて、カニス氏はまたハクチョウから離れるが、またふいに近寄る。
ピクリとするハクチョウ。
そんなことを何度か繰り返す、カニス氏。
その度にピクリとするハクチョウ。
やがて、笑いだしてしまうカニス氏。

カニス氏
いったい、私は何をしているのでしょう。何をしているのでしょうか。まるで、幼児か、犬や猫にでも説教をしているかのようです。そうですね、こういう場合、たいていは散らかすことはできても片付けることはできないものです。いろいろ言ってみたところで、いつのまにか片付いているということなどあり得ませんから。

仕方なく、片づけようしたところで、またしても電話が鳴る。
今度こそ目当ての電話だろうと、少し余裕をもって受話器をとるカニス氏。

カニス氏
はい、もしもし、えっ? ああ、はい、おはようございます。はい? いえ、カニスです、いや、カニスです。カニス、カニスです。いやいや、それでカニスと読むのです。ええ、そうです、カニスです。カニスですが、何か? ああ、そうですね、こういったご時世ですからね、やむを得ないでしょうな。逆に訪ねてこられても、こちらも迷惑ですからね。迷惑というより、危険ですからな。きわめて危険なことですからな。お互いに、お互いにリスクが高すぎますからな。ええ、はあ、はい、えっ? ちょっと待ってくださいよ。あなた、あなたね、こちらの宗派をきかないのですか? 私の宗派もきかずに、そんなことをいきなり言い出すのですか? もし私がムスリムだったら、そんな私にあなたは何ということを言いはじめたのかっていう話ですよ。戦争になりますよ。おそらくあなたのお仲間だと思いますが、以前ここに訪ねてこられた方にも同じ話をしているのですがね。そちらの営業マニュアルにはいまだ反映されていないようですな。逆の立場になってお考えいただいたら、すぐに理解できる案件だと思いますがね。少なくとも、同じことを何度も言わせないでいただきたい。あの家に行ったらこんなことを言われる、それぐらいの情報はそちらで共有したらいかがでしょうかね。それぞれの家の信仰をリスト化するぐらいはしておかないと、とても傲慢に受けとられますよ。まあ、それ以前に電話をかける相手の名前ぐらいは、最低限間違わないようにしないとね。ああ、はい、はいはい。こちらこそ。

電話を切る、カニス氏。

カニス氏
やれやれ、今どきは宗教の勧誘も電話ですか。苦肉の策なのでしょうけどもね。実績が上がるとは思いませんがね。それ以前に、まともな営業もできないようですが。カニスです。私は、カニスさんですよ。

ふたたび、ふとハクチョウを見やるカニス氏。

カニス氏
そういえば、あなたはひとりですね。お仲間は、どうしたのでしょうね。それと、名前は? あなたたちの仲間内では名前があるのでしょうかね。名前で呼び合ったりするのでしょうかね。それとも、そういったものなど必要のない社会なのですかね。あなたたちの社会は・・・・・・

家のチャイムが鳴る。

カニス氏
おや、誰でしょう、こんなに朝早くに。えっ? ケアマネ? もう来たのでしょうか。こんなに早く着いたのでしょうか。ちょっと早すぎやしませんか。30分後と言っていたではありませんか。仕事熱心というか、何と言うか・・・・・・。あっ、ハンコ、ハンコと。さて、どこに、どこに置いたでしょうね。

カニス氏、部屋のなかをドタドタと歩きまわる。
だが、カニス氏の歩幅は足のサイズと一緒。
なかなか進まない。
家のチャイムが鳴る。

カニス氏
ああ、はいはい、わかってますよ。わかっていますよ。

カニス氏、部屋のなかをドタドタ歩いている。
家のチャイムが鳴る。

カニス氏
わかりました、わかりましたよ。ああ、まずは入ってもらいますか。そうしましょうか。

カニス氏、ドタドタと歩き、ケアマネジャーを部屋に招き入れる。
だが、ケアマネージャーの姿は見えない。
カニス氏には見えているようではあるが。

カニス氏
ずいぶん早いじゃないですか。30分後と言っていたのに。ええ、言いました、問題ないとは言いましたが、それは30分後は問題ないということで、いつでもいいという意味では・・・・・・。してませんよ、部屋の模様替えなどしておりません。探し物もしておりません。まだハンコも探していないのですからな。威張ってませんよ。どうして私が威張らなければならないのです。ああ、ハンコですね。ハンコ、ハンコと・・・・・・

ドタドタと歩きまわる、カニス氏。
ふと、椅子に座っているハクチョウに気づく、と言うか思いだす。
カニス氏は、「隠れなさい」と目配せするが、ハクチョウがそれを理解するはずもなく、それ以前に隠れる場所もない。
ハクチョウは、思っているよりほんの少し大きい。

カニス氏
えっ? いや、何も言っておらんよ。はて、どこに置いたかな。もしかしたら、あんたのほうがわかるんじゃないか。ないんじゃよ、いつもは、そう、そこ、そのタンスの上の小さな桐の箱の中に入れておるのだが、見あたらない。ここ最近、そんなところはいじってはいません。いや、誰も来とらんよ。ハンコは、まったく使ってない。使っていません。だから、模様替えなどしとらんと言っているでしょうが。えっ、あった? ありましたか? どこに? 玄関? どうしてそんなところに。いや、だから誰も来ておらんよ。来るのは、あなたぐらいです。でも、まあ、見つかったのなら、それならそれで、まあ、いいでしょう。いつものように、あんたがやっておくれ。毎月のことです。別に変ったことは何もないのでしょう? 何も変わりはない。良くなることも、悪くなることもない。悪くならなければいいのです。ああ、はい、よろしくお願いしますよ。ああ、はいはい、大丈夫。あっ、そうです、もうひとつ、もうひとつだけお願いしたいことがありました。申し訳ないのだが、このゴミを頼みます。

カニス氏、先ほどの分解されたトースターを入れた袋をケアマネージャー(見えない)に渡す。

カニス氏
はい、お願いしますよ。はい、はいはい、ありがとう。それじゃあ、ご苦労さまでした。

カニス氏、ケアマネージャー(見えない)を送り出す。
そして、すぐにハクチョウのもとへ。

カニス氏
どうして、隠れないのです。隠れてくれないのです。なぜ隠れなければならないのかと訊かれたら、明確な答えはありませんが、見つからなければとりあえずは問題にはなりませんし、問題になった場合、なぜこのような事態になっているかを明確に説明することもまた、私には不可能なことに思います。そもそも、その辺のことは明確どころか、まったくと言っていいほど私にはわからないのですからね。なぜ、このような事態になっているかなど。それにしても、ケアマネはあなたにまったく気づきませんでしたね。こんなに大きいのに。灯台下暗しというのですかね。それとも、見えていないのでしょうか。あなたは、あなたはどうです? ケアマネは見えましたか?

ふたたび電話が鳴る。
カニス氏、真鍮の置時計をのぞきこみ、首をかしげる。
そして、少し不安そうに受話器をとる。

カニス氏
はい、もしもし、ああ、大丈夫ですよ。今日は少し遅かったね。そうか、熱をね、それで今は? でも、少し心配だね。何が心配って、熱が一番心配ですからね。ああ、それは仕方ないね。食事は出てないのでしょう? いい加減、点滴の針を刺せる場所もなくなってきますからね。まあ、それも仕方ない。少しの間の辛抱です。ハハハ、そうですか、お腹はすきますか。それなら大丈夫、大丈夫ですよ。ああ、そうだね。ゆっくり休むんですよ。ああ、いつでも、いつでも電話をかけてきなさい。はい、それじゃあ、それじゃあね。

カニス氏、受話器を置く。
そして、深いため息。
ふたたび電話が鳴る。
カニス氏のなかを嫌な予感が走りぬける。

カニス氏
はい、もしもし。あっ、おはようございます。ああ、はい、いつもお世話になっています。ええ、ええ、今さっき本人から電話がありました。はい、携帯電話は持たせているもので。ええ、そのようですね。熱を出すのは何度目かですが、正直なところどうなんでしょう? 大丈夫なのでしょうか。ええ、ええ、ああ、そうなんですね、三日も、三日もなんですか。面会は? そうでしょうね。わかりました。こんなときですものね、仕方ありません。わざわざ、ありがとうございます。何かありましたら、ご連絡ください。ああ、はい、何とぞよろしくお願いします。はい、失礼いたします。

受話器を置き、ふたたび深いため息のカニス氏。

カニス氏
ちょっと心配ですね。看護師ではなく、先生本人からでしたからね。ええ、妻です。まあ、高齢ですからね、何が起きてもおかしくはないのですが、それはわかっているのですが、それでもね、心配、心配ですね。一年も入院していると、わかるようになるのです。似たような症状でも、問題ないときとかなり危険なときと。

しみじみとティーカップを撫でる、カニス氏。

カニス氏
こんなときでなかったら、あなたと一緒に面会にも行けたでしょうにね。きっと驚きますね。なにせ、ハクチョウが面会にくるなんて前代未聞でしょうからね。みんな、驚きますよ。何か言われるといけませんから、ちゃんと正装してくださいよ。ちゃんと、ちゃんとね。驚きます、きっと驚きます。そして・・・・・・、喜びます。

そのままうつむく、カニス氏。
雨音が、一段と強くなる。
まるで、カニス氏の嗚咽を優しく隠すように。

20 8時30分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

明かりがはいると、前場と同じありすの部屋。パソコンの脇にコーヒーカップと、宮沢賢治の本が何冊か置かれている。ありすが携帯電話を片手に部屋中を焦りまくってうろうろしている。ふと、立ち止まった。どうやら相手が電話に出たらしい。

ありす
あっちゃんっ! もしもしっ、今大丈夫? ……大丈夫ではない? いやいや、もうっ、ご冗談をっ、もうっ、あっちゃんったらっ! もう、そんなこと言わないでっ! わたしゃもうダメでござるよっ! もうダメですっ、なんてちっぽけな私……もうおしまいです、もうもうっ! いやもうほんと、もうもうだよっ……もう、ほんと、まったくっ、もうもうっとしか言えないよっ!……牛かよっ!モーモーって牛になっちゃうよっ!……(間)……あ、ごめん。あ、うん……ちょっと今、自分でも何言ってんのかわかんない……うん、そう……うん……そうなの、だから助けてよあっちゃんっ、もう、どうにもなんないのよっ……私、あっちゃんしか頼れる人がいないのっ

間。

ありす
そう……え? 8時、45分……あと15分っ……いや、ゲンミツに言えばもう、時間ない。だってドトールまで歩いて15分かかるんだもん……うん?……ぜんぜんっ……なんにもっ……どうする?……謝るの?……私が?……あ、いやいや、そりゃね、私しかいないんだから、そりゃ自業自得なんだからね……うん、でもさあ、だけどねえ……勿論よ、最終的にはね、もちろんそうするつもりではいるけれどもっ……なんかあ、もっといい解決方法がないかなあって

電話の向こうであっちゃんが怒って叫んでいる……らしい。

ありす
怒んないでようっ……わかってるわよっ、書けない私が悪いのよっ。それはわかってるの、その上であっちゃんに相談してるの……なにかいいアイデアはないかって……うん? そう、アイデア……え? いやいや、なにを仰いますか? そういうアイデアじゃなくてさあ……そんなの考えたって今はもう間に合わないじゃん……そういうのは期待してない。……なにが? だからあっ、ドトールにっ、行かなくてもよくなるようなアイデアはないかなあ、ってことよ……そういうアイデアが欲しいのよっ!……考えりゃすぐわかんじゃんっ

間。多分あっちゃんが怒鳴っている。

ありす
なんかさあ……ああ、そうかそりゃしょうがないなあ、じゃあ、締め切り延ばすしかないかなあ……って思えるようなやつよ

間。あっちゃんが嫌々なにか答えたようである。

ありす
ええ?……ダメだよそんなありきたりなっ……仮病なんかどれだけ使ったことか、それにこの時期だとかえってヤバいことになりそうな気もするし……うん?……ああ、それもダメっ、それ言ったら私、今までにウチの家族も親戚も、すでに全員殺してる。

間。

ありす
ええっ、なにそれっ……今、異世界の魔物に召還されちゃって、ドトールには行けませんてかっ! へえっ!……馬鹿じゃないの? あっちゃんさあっ、もっと真剣に考えてよっ!そんなだから、男だって逃げちゃうのよっ!このアニオタめえっ!

間。

ありす
おっと言いすぎました……もしもし? あっちゃん? 今のは口が滑っただけだからっ、あっちゃんてばっ、怒らないでよ、ねえちょっと待ってっ!

あっちゃんが電話を切ったらしい。当然である。

ありす
……

携帯を置いて、ベッドに身を投げ出した。

ありす
なにもかもアウトだよ……なんでこうなんだろうなあ

間。

ありす
謝るの……嫌だなあ

間。

ありす
才能、ないよなあ……もう、どっか逃げ出したい

と、携帯電話の着信音。

ありす
あっちゃん?

携帯電話を見るが、あっちゃんからではなかったらしい。

ありす
え? なんで?……この番号って、さっきのやつじゃん。あれ? 着信拒否してなかったっけ

言いながら、携帯を着信拒否にしようとしていると、再び着信音。

ありす
……

ありすはしばらく見つめてから、電話を取った。

ありす
イタ電してんじゃないわよっ! 二度とかけてこないで! 馬鹿っ! 迷惑なのよ! 自分のことばっか考えてんじゃないわよっ!

言うだけ言うと通話を切った。

ありす
……まあ、私も……人のこと言えた義理じゃないけど

間。

ありす
ああっ! やだやだ!……ほんと、情けないったら!……情けないったらないわね……

なにか決心したかのように、部屋着を乱暴に脱ぎ捨てて、髪の毛を整えながら退室する。ややあって上着を羽織り、鞄を持って戻ってくる。携帯電話を取って、安岡に連絡を取ろうとしている。

ありす
……

間。

ありす
……あれ?

間。

ありす
安岡さん、留守電になってない……

間。

ありす
……あ、これってもしかすると……ちょっとだけ、ラッキーなのかも

呼び出し音が、小さく聞こえてくる……その音を残しつつ、ありすだけに明かりが入る。

21 9時45分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

カニス氏は、テーブルいっぱいに広げた大量の書類に頭を埋めんばかり。
ハクチョウは、いつものように正面に顔を向け、椅子に座っている。

カニス氏
書類というものは、増える生き物なのでしょうか。整理しても整理しても増えるばかりで、整理したそばから、それをまた整理しなければなりません。さて、まずは保険会社に送らなければならないのは、どれですかね? 医療関係のものは、ほんとうにややこしいですね。おや、これは、もしかしたら入院したときに提出しなければならない書類ではないでしょうか。あれ? どうして、同じものがふたつあるのでしょうね。こういう増え方をされると、ほんとうに困りますね。ひとつは捨てていいんだか、悪いんだか。おや? これは、前回すでに提出したものではないでしょうか。捨ててもいいんですよね。それとも保存しておかなければならないのでしょうか。それも、いつまで保存すればいいのでしょうね。ん? これは、ケアマネのほうでしょうか。ああ、サインと印鑑ばかりですね。これは、まだ支払いが済んでいないということですかね。請求書ですかね、それとも領収書・・・・・・

電話が鳴る。
少し不審そうに受話器をとる、カニス氏。

カニス氏
はい、ああ、どうしました? えっ? どういうことです? そんなことはないでしょう。いや、みなさん、よくやってくれてると思いますよ。そんなはずはありませんよ。どうしました? 何かありましたか? いや、それは言葉の綾でしょう。そんなふうにとってはいけませんよ。大丈夫です。ええ、ええ、大丈夫ですよ。心配いりません。みなさん、よくやってくれています。だから、ここまで快復したのではないですか。先生もそうですし、看護師さんたちも、ほんとうによくやってくれていますから、むしろ感謝しなければいけませんよ。大丈夫です、大丈夫ですから、気持ちをもっとゆったりもちましょう。感謝の気持ちを忘れてしまうと、やはり人はカリカリしてしまいますからね。ゆったりですよ、ゆったり、心静かにね。はい、はいはい。そうです。はい。

受話器を置く、カニス氏。

カニス氏
まあ、これだけ入院が長くなると、気持ちもね、そりぁあ、気持ちも不安定になりますよ。鬱になる人も多いそうですよ。看護師さんもよく話を聞いてくれて、がんばってくれているのですがね。それでも、被害妄想に陥ったりしますね。難しい問題です。ほんとうに、難しい問題ですね。(書類の山に気づき)あっ、どこまでやりましたかね。ああ、ここにも同じものが2枚・・・・・・

ふたたび、電話が鳴る。
不安そうに受話器をとるカニス氏。

カニス氏
はい。えっ? 何ですか? 何を言っているんですか? そんなことは、無理に決まってるじゃないですか。ひとりでなんて無理です。ほとんど一年ずっと寝たきりだったのですからね、立つこともできないでしょう。無理です。這うことだってできませんよ。倒れて、すぐに骨が折れてしまうのが落ちです。そうしたら、またやりなおしですよ。せっかくよくなってきたのに、やりなおしどころか・・・・・・。ですから、大丈夫ですよ。帰りたいでしょう? 早く家に帰りたいでしょう? だったら、がんばってください。そのために、先生も、看護師さんたちも、私だってがんばっているのですから。そうです、そうですよ。少し焦っているのでしょうね。気持ちはわかりますが、焦ってはいけません。焦らずに、毎日少しづつです、少しづつがんばるのです。そうです。少しづつの積み重ねです。私も行ってあげたいけれど、今はそういう訳にもいきませんからね、そうですよ、みんなです、みんな面会禁止です。みんな辛抱しているのですから、ねっ、あなたも少し辛抱しましょう。あまりイライラしてはいけません。頭が休まりませんからね。頭が休まらないと、ネガティブなことばかり考えてしまいますから。出口のない、息もつけない迷路に陥ってしまいますから。そうです、ハハハ、そうです、深呼吸は大事です。呼吸が浅くなると、やっぱりそういうことになってしまいますから。笑ってください、無理しても笑ってください。笑うと、免疫力が上がりますからね。はい、はいはい、それじゃあ。

カニス氏、受話器を置く。

カニス氏
一番大変なのは、本人です。本人が、一番大変なのです。ああ、書類を整理できるような頭ではなくなってしまいましたね。ちょっと、お茶にしましょうか。何か甘いものでもありましたかね。

電話が鳴る。
ちょっと躊躇するが、受話器をとるカニス氏。

カニス氏
はい、ああ、お前か、ああ、大丈夫です。こっちは、変わりないよ。病院に顔を出してもらうのが一番いいんだが、そういう訳にもいかないしな。そっちはどうです? 大丈夫ですか? みんな、元気ですか? 子どもたちは? そうか、十分に気をつけるんですよ。いや、いい。家もだめです。帰ってきてはいけません。子どもたちに会いたいのは山々だが、子どもたちを危険にさらす訳にはいきませんからね。ええ、ああ、そうだね、そういうことだね。はい、ありがとう。はい、それじゃあ

受話器を置く、カニス氏。

カニス氏
ええと、何をしようとしていたのでしたっけ? ああ、そうそう、お茶です、お茶でした。

電話が鳴る。
憂鬱そうに受話器をとる、カニス氏。

カニス氏
ああ、はい、うん、うん、だからね、そんなことはないのですよ。違いますよ。先生がそんなことを言う訳ないじゃないですか。どうしたのです。あなたらしくありませんよ。いえ、だから・・・・・・。怒りますよ、私も怒りますよ。そんなことばかり言って、いったい誰のためになるというのです。誰も幸せにならないではありませんか。みんなが辛くなるばかりです。みんなが病気と闘っているのに、本人がそんなことでどうするんですか。治るものも治らなくなってしまいます。治りたくないのですか? 急に心配になったのでしょう。誰でも、急に不安になることはあります。でも、大丈夫です。大丈夫、大丈夫。私もそう言っているし、先生もそう言っていたじゃないですか。心配することなんて何もありません。そうですよ。焦らずに、ゆったりかまえてください。そうでないと、病気の思うつぼですよ。そうです、大丈夫なのですから。はい、はい、ああ、かまわないよ。いつでも電話をかけてきてください。はい、はいはい、ゆったりと深呼吸ですよ。ハハハ、はい、またね。

受話器を置く、カニス氏。
深いため息をつく、カニス氏。

カニス氏
こういうのは、少しですが、ほんの少しですが、他のことに比べて消耗しますね。神経が消耗します。それでも、一番辛いのは本人ですからね。辛いですよ、ただでさえ不安で寂しい長い入院生活に、面会も禁止されてしまったのですからね。怖くもなります。

電話が鳴る。
さすがに疲れの見える、カニス氏。

カニス氏
はい、どうしました? ですから、えっ? 衣替え? ああ、そうですね。そうでしょうね。それは、気分も変わります。でも、どこに何があるのか・・・・・・。ああ、わかりました。探します。探してみますよ。ハハハ、やっぱりお腹はすいていますか。気持ちをポジティブにもつことが、体を喜ばすことにつながりますからね。点滴が終わって、また食事が出るようになったときのことを楽しみに、いろいろ想像してみてください。またお菓子を差し入れしますよ。ああ、甘栗ね。そうですね、甘栗をね。それを、それをね、楽しみに、楽しみにね。はい、わかりました。衣替えですね。はい、はいはい。

受話器を置く、カニス氏。

カニス氏
衣替え、衣替えね。また厄介ですね。(自嘲的に笑いながら)見つけられますかね。上着やパジャマなどはわかりやすいですが、その他のものとなるとね、いったい何が衣替えされるのかもよくわかりませんしね。そういうことは、何と言っても不慣れですからね。そもそも、女性の衣替えに関与した経験がありませんからね。まあ、探してみますけどね。はたして、どこをどう探せばよいのやら。

ハクチョウが、管楽器のような小さな声を漏らす。

カニス氏
えっ? ああ、そうですね。また部屋がね、考えただけでも嫌になってしまいますね。散らかることは必須でしょうからね・・・・・・

ハクチョウは同意のように、首を上下に動かす。

カニス氏
ん? あっ、でも、でもですね、そうです、そうですよ、あなたの仕業のときもあったのですよ。そうです、そうです、いつも私が散らかしているような、そんな気に私自身もついなっていましたけども。それをいいことに、そうやって世間はみな年寄りのせいにして、濡れ衣を着せているのですよ、そういうことが、日常のささいなところでいろいろ起きていると思いませんか? 何かなくなると、「おじいちゃん、また人のものをいじったでしょう。どこにもっていったんですか?」とか。それが本人の勘違いだったとわかっても、その報告も、謝罪もない。おじいちゃんは、いつまでも自分のせいでなくなってしまったのではないかと気に病まなければならない。まったくもって、不条理です。・・・・・・まあ、そんなことを言っても、衣替えですね。やらなければならないことは、早く済ましてしまった方がいい。生活の鉄則です。(書類の山を見て)でも、この書類はどうしましょう。広げてしまったこの書類を。やらなければならないことが同時に山積みになっているではありませんか。早く済ませようにも、どこから手をつけたらいいか・・・・・・。ん? 何かしようとしていたような、私は何かしようとしていたような、あっ、そうです、お茶です、お茶を淹れようとしていたのです。でも、あれですね、気分転換にしようとしていたことさえ、やらなければならないことのひとつになってしまったようで、気が進まなくなってしまいましたね。面倒臭い、ああ、面倒臭いことばかりですね。日常というものは、面倒臭いことばかりです。

しばし呆然としている、カニス氏。
やがて、カニス氏はハクチョウをじろじろ見はじめる。

カニス氏
つかぬことをお聞きしますが、あなたたちハクチョウの骨は、どこに行けば見られますか? 骨はどこにありますか? 見たことがありませんね。やはり、シベリアですか?

ハクチョウが、ふたたび管楽器のような声を、小さくもらしたようだった。

電話が鳴る。
面倒くさそうに受話器をとる、カニス氏。

カニス氏
はい、ああ、はいはい、今日? あっ、ああ、今日だったね、そうそう、今日です。今日ですよ。わかってます、もちろんわかっていますよ。どうしてですか? どうして、私が忘れることがあるのです。忘れていません。今日でしょう、今日の、そう2時です。わかってます。ああ、はい、はい。

受話器を置く、カニス氏。

カニス氏
すっかり忘れていましたね。もう一週間ですか。早いですね。まあ、ひと月があれだけ早いのですから、当然一週間も早くなります。2時ですか。2時、そう、2時にですね、訪問看護師がきます。すっかり忘れていました。週1回、私に異常がないかチェックしにくるんです。これは、つづくんですね。こんな事態になっていても、訪問看護はつづくんですね。まあ、何かあったらどうにもしようがないですからね、私たち年寄りは。ただね、この人もですね、幼児を相手にするように大きな声で、変なしゃべり方をするんですよ。やはり、それぞれひとりひとりのタイプをですね、ちゃんと見極めて対応していただきたいものです。ああ、そうでしたか、今日でしたか。今日は、いつにもましてとても忙しいですね。今日の午前中は、ラッシュですね。ラッシュアワーですね。(なぜか、大きな声で笑う) あっ、そうだ、月一回の病院への定期受診は今日ではないですよね。明日、たしかに明日のはずですよね。ああ! そうです、そうでした! 私は診察券と保険証、それにお薬手帳を探していたのではありませんでしたか? そうでした、そうでした。はて、どこにあるのでしょうね。今は、探す気にもなりませんね。見つかる気もしません。あれ? そもそも私はいま何をしようとしていたのでしたかね。これは、これはですね、断固として計画表を作成せねばなりませんぞ!

家のチャイムが鳴る。

カニス氏
はっ? 誰でしょう。ほんとうに、今日は忙しいですね。ラッシュです。ラッシュアワーです。(なぜか、また大きな声で笑う)

家のチャイムが鳴る。

カニス氏
はい、はいはい、聞こえておりますよ、と。

カニス氏、ドアスコープをのぞく。

カニス氏
ああ、ヘルパーさんです。もうそんな時間なんですね。早いですね。

ドアを開け、ヘルパーを招き入れる、カニス氏。
だが、やはりヘルパーの姿は見えない。
カニス氏には見えているようだが。

カニス氏
えっ? そんなことないですよ。何も変わったことはないですよ。ええ、ええ、何も変わっていません。

カニス氏、ハクチョウがいることに気づく。というか思いだす。
カニス氏は「隠れなさい」と目配せするが、ハクチョウはとぼけた顔を正面に向けたまま椅子に座っている。というか、隠れる場所はない。
ハクチョウは、思っているより少しだけ大きい。

カニス氏
いえ、何でもありません。何もしてません。私が何をしているというのですか。おかしくないですよ。何もおかしいことはありませんよ。何を言っているのですか。まったくもって、あなたは何を言っているのか。威張ってませんよ。どうして私が威張らなければならないのです。していません。だから、模様替えなどしていませんよ。わからない人ですね。ええと、ええ、そうですね、今日は取り立ててやっていただくことはありませんね。ゴミも大丈夫です。着替えも、トイレも問題ありません。ええ、大丈夫です。大丈夫ですよ。ただ、ちょっと買い出しをお願いしたいのですが。ええ、ええ、食材の買い出しです。大したものではありません。食パンと、ええと、そうですね、何がいいでしょうね、そうですね、キャベツにしましょう。食パン二斤とキャベツ二玉、そうしましょう。念のために、ハムもお願いできますか。すいませんね、そうです、夕方に届けてもらえれば。はい、お願いします。はい、そうです。2時に訪問看護の方が来ます。忘れてませんよ。私がいつ忘れたというのです。ええ、ええ、そうです。そうですよ。はい、それじゃあ、お願いします。

カニス氏、ヘルパーを送り出す。
すぐにハクチョウに寄る、カニス氏。

カニス氏
どうして、隠れないのです。隠れてくれないのです。でも、変ですね。ケアマネといい、ヘルパーといい、まったくあなたに気づいていた様子がありませんね。あなた、なかなかの大きさですよ。それなのに、変ですね。それとも、見えていないのでしょうか。でも、そんなことってありますか? 私には、こんなにはっきり見えているというのに。触ることもできるんですからね。不思議ですね、やっぱり灯台下暗しなのでしょうかね。あなたは? あなたはどうです? いまのヘルパーさん、見えていたでしょう?

電話が鳴る。
なぜか、カニス氏に緊張が走る。
恐るおそる受話器をとる、カニス氏。

カニス氏
はい、どうしました? ええ、ええ、ぬいぐるみ? ぬいぐるみですか? どうして、そんなものを? お守りみたいなものですかね。魔除け? ハハハ、ぬいぐるみが魔除け? はい、いいですよ、それで安心できるのなら、それはそれでとてもいいことですからね。それで、どんなぬいぐるみを? はい? それは、地方のゆるキャラではありませんか。ここでは、なかなか手に入らないと思いますよ。ウサギ? ウサギですか? ウサギ、好きなのですか? 知りませんでした。ああ、そうですか。いいですよ、ウサギのぬいぐるみですね。ちょっと探してもらいましょう。他にも? はい、いいですよ。言ってみてください。おお、それはいいですね、いいと思いますよ。音楽は、そうですね、とてもいいと思います。そうですね、CDデッキとイアホンが必要ですね。何とかしますよ。用意しますよ。ああ、CDも用意しなければなりませんね。どんな曲がいいですか? モーツァルト? モーツァルト、好きなのですか? 知りませんでした。そうでしたか。ベストアルバムのようなものでいいですか。交響曲? 39番、変ホ長調。ずいぶん詳しいですね。ちょっと待ってください。メモしますから。はい、もう一度お願いします。モーツァルト、交響曲第39番、変ホ長調、ですね。はい、わかりました。有名な曲なのですか? そうですか、それならすぐに見つかりますね。はい、わかりました。今日というわけにはいかないだろうけど、近いうちに届けますよ。はい、ぬいぐるみもね、ウサギのね、はい、はいはい。楽しみにしていてください。はい、じゃあね。

受話器を置く、カニス氏。

カニス氏
そうでしたか、ウサギとモーツァルトが好きでしたか。60年以上一緒にいて、まったく知りませんでしたね。

カニス氏、じっとメモを見つめる。

カニス氏
少し疲れましたね。

椅子の背もたれに身をあずけ、カニス氏はゆっくりと目を閉じる。
遠くで、モーツァルトの「交響曲39番変ホ長調」が聞こえてくるような気がする。
それが聞こえたのか、ハクチョウはいきなり椅子に立ちあがり、伸びをするようにして片翼を広げたかと思うと、大きく口を開く。
まるで、今にも歌いはじめるかのように。
だが、ハクチョウは何の声も発しない。
ただ、空中に浮かぶ何ものかを追うように、大きく口を開けたまま頭を左右にグルグルまわすだけ。
片翼だけを広げて。

22 10時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

呼び出し音が象徴的に聞こえているその中で。

ありす
……それから私は、少し時間の間隔をあけて安岡さんに何回か電話をしました。何度かけても携帯は繋がりませんでした。メールを送信しても返事がありません……だからって、ドトール待ち合わせの約束を破っていい理由にはなりませんけど、なにせそのとき私、ナーバスが超絶マックスでしたから、「安岡氏と連絡が取れない」イコール「待ち合わせは安岡氏の都合で中止決定」イコール「これってドトールに行かなくても、私は悪くないよね」という、ご都合主義的幸せ脳内回路が完成されてしまいました

呼び出し音が止んだ。明かりが元に戻った。

ありす
そんなこんなで、今、午前10時です……約束の時間から一時間以上経ってます。安岡さんからは、相変わらず連絡がありません。メールもありません。生真面目な安岡さんにしては考えられないことなのですが……今は心配よりも安堵感のほうが大きいです。とにかく、今のうちに書いてしまわなければならない、これは神様が与えてくれた時間なのでありますから……もうパクリどうこう言ってる場合ではない。宮沢賢治? 誰それ? 知らない子ですね……何年童話作家やってんのよ、あなたはもっと自信を持ちなさいっ……

ありすが意を決してパソコンに向かった。

ありす
……

ありすがキーボードをカタカタと叩いた。しばらく無言で叩いている。と、携帯の着信音。凍りつくありす。ゆっくりと首だけ動かすようにして、恐る恐る画面を覗き込んだ。

ありす
ああっ! まただっ!

携帯を握り締めて。

ありす
安岡さんではなく……例のイタ電野郎でした……性懲りもなくまた掛けてきやがりましたよっ。なんでなの、着信拒否にしてるはずなのに、すり抜ける裏技でもあるわけ? ふざけやがってっ……こっちは今、修羅場の真っ只中で苦しんでるのにっ、それを奴は電話の向こう側で嘲笑っていやがる……そう思ったら頭の血管がぶち切れそうになりましたっ。怒りにまかせて怒鳴りつけてやろうとした瞬間でした。私よりも先に向こうから……話かけてきたんです

明かりが変わった(これ以降、演者が電話でのやり取りを演じ分ける)。

……あの……あの、あの……お願いですから僕の話を聞いてください……そうでないと僕がとても困ることになるのです
ありす
……なんであんたが困るのよっ
業務が滞ることになりますと、ぼくが責任をとらされるのです
ありす
業務?
……わかりましたら電話、切らずにどうか……お願いします
ありす
(携帯を離して)おかしなことを言い始めたぞ……業務ってなんだ? そもそも私がなにか悪いことしたか? そっちが勝手に電話してきただけでしょ……まあどうであれ、私はあんたの業務に付き合っていられるほどヒマじゃないのよっ……と、そう言って通話を切ろうとすると……いきなり電話の向こうでネコが「みゃあっ!」と鳴いたかと思ったら、続けざまに様々なネコたちの鳴き声が聞こえてきました

間。

ありす
なんだろう? なに? なにこれ? ……電話の向こうでなにが起こってんの?……にゃあにゃあみゃあみゃあとネコが何匹かで言い合いをしているかのようでした。私はわけがわからず、しばらくその声を聴いていました。もともとネコ好きでしたから、こうなると電話が切れません。相手がイタ電してるってこともすっかり忘れて、ちょっとだけほんわか、癒やされてしまいました……

間。

ありす
どれだけそうしていたか、まあ……あんまり覚えてはいませんが、いくらネコ好きでも、さすがに電話口でずっとみゃあみゃあ鳴かれればイラッとくるわけでして……「いい加減にしなさいよっ!」と一喝すると、ネコの泣き声はピタリと止んで、さっきの男がおずおずと話し始めました

再びありすによる演じ分け。

……あ、ええと、はあ……たいへん失礼を差し上げてしまいまして、申し訳ありません
ありす
なんなのよっ、今のはっ……あんた、ネコ飼ってるの?
あ、あのう……すみません、ニホンゴはとても難しいのです……緊急の打ち合わせはやはり、慣れたほうの喋りかたがよろしいのです
ありす
なに言ってんの? 慣れたほうの喋りかたって……今の、まるっきりネコだったじゃんっ
……だから、ネコですが? なにか?
ありす
は? え? あれ?
前に話したとおり……私たちは、ネコの第六事務所です
ありす
ふざけんじゃないわよっ! ネコに電話なんか掛けられるかってのよっ! どうやって電話かけられるの? 肉球のくせして電話なんかできないでしょうがっ
それは……私たちは努力をしてここまでできるようになりました……あなたの言い方はさしずめ……社会的偏見でしかありません
ありす
あの
なにげない一言が、差別を生み出すのです
ありす
あ、えっと、それはどうも……すみません
……いえ、わかってくださればよいのです
ありす
……
話を……聞いてくれますか?
ありす
今、私……忙しいんだけど
とても重要な話です、あなたは聞かなければなりません
ありす
なによ、重要な話って?
明日から……戦争が始まります。人間がたくさん死ぬでありましょう。でもあなたは助かるでしょう……おめでたいことに、あなたは選ばれました。ほんとにあなたは、おめでたい人間です
ありす
なんか私、馬鹿にされてる?
いえ、滅相もございません
ありす
まあ、いいけど……ごめん、ちゃんと聞いてなかった。悪いけどもう一回言ってくれる? えっと……なにが始まるって?
戦争が……始まるのです
ありす
へえ、そう……で? なんなの?
あなたは選ばれましたので、わたしたちがサポートします……もうすぐお迎えがきます。とてもおめでたくございます
ありす
ああ、あのね……私は別にいいから、誰かもっと良い人間を助けてあげてくださいな。私のことは放っといてくださいね
それはできません。あなたはもう、選ばれてしまいましたから
ありす
知ったこっちゃないわよっ。なんなの? なにが目的? 新しいマルチビジネスかなんかなの? 言っておくけど、私、お金持ってないからねっ、無駄だからねっ……戦争が始まるって、あんたさ、嘘つくならもっとまともな嘘をつきなさいっ……世の中早々にそんなこと起こるわけないってのっ
とにもかくにも……伝えることは伝えました。お迎えの時間やらお迎えの方法やら、詳細が決まったら再び電話を差し上げます。あの……私たちも、その……あんまり慣れていないので、不手際があったりします。どうかそのあたりはご容赦願います。とにもかくにも、緊急で危険な業務ですが、絶対お迎えは来ます……なにが起こるかわからないので、今のうちにご飯食べておいてください。あ、食費は支給されないので、実費でお願いします
ありす
私は関係ないって言ってんでしょ!
言い忘れました……私、ネコの第六事務所の「かま猫」と申します
ありす
え?
若輩者でありますが……以後、よろしくお願いします

間。携帯を耳から離して。

ありす
頭の中で、なにかがぐにゃりと歪んでいくような気がしました……私の中では、いつもの日常がほんの少し違っている気がするのですが、それでも、日常は日常として続いている……だからわかりませんでした。なにかがおかしいと思うのですが……それは、すぐに風景に溶け込んで……忘れてしまうんです

23 10時21分(秘稿のあとさき)

山積みになっている本が音を立てて雪崩のように崩れる音がする。

障子に人影が映っている。
その人影がゆらゆらとゆれる。
人影がしゃべり始める。独り言のように。
基本的にこの人影の一人称の語りで、この戯曲は進行する。

 家にこもっている。食欲がない。ずっとだ。数か月前からだ。コロナ禍のせいではない。いや、それもあるが、それだけではない。
 かつて「ジョジョ」のディアボロは言った。「恐怖はまさしく過去からやってくる」。そのとおりだ。恐怖はまさしく過去からやってくる。余は怖れている。おびえている。いつの日か、それがやってくることを。
 どうしてこんなことになってしまったのか。余は思う。余は老獪だ。うるさい。一言でいえば、面倒臭い人間として知られている。
 余に接するとき、他人はぴりぴりしている。官憲だってそうだ。余に向かって、忌憚のない言葉を浴びせるのは、女だけだ。
あの旧稿、あの淫文を見せなければよかったのだ。もともと発表する気はなかったのだ。筆禍を招くことはわかっていたからだ。それなのに、見せてしまった。他人を信じないと決めている余が信じた。それも二人だ。
 「これは駄目ですね」うっかりそれを見せた一人はいった。公刊するのが駄目だということだ。もちろん、それは余にもわかっている。
 「死んでからこういうものが一つくらい出てこなくちゃ駄目ですよ」と余はいった。死後に出てきて、世間が驚く顔が見たかっただけだ。まあ、死んでいるので、その顔を見ることはできないわけだが。
 余は、みくびっていたのである。好奇心というものを。人間が持つ、毒虫のようなそれを。わさわさと増殖し、人間の良心をないがしろにするそれを。
 余、141歳になりて、猶人物を見る明なし。
 え? これが、あの先生の作品なのか? と世間は眉をひそめて、小声で囁くだろう。

24 10時43分(秘稿のあとさき)

障子に映っている人影が動く。

 余の一日が千年のように続く。どこまでも長いトンネルのなかにいるようだ。暗夜行路である。ああ、そんなタイトルの小説があったな。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」で始まる小説もあった。まあ、新進作家のことなどどうでもいい。余は文学者と新聞記者が大嫌いなのである。
 ゴキブリの如く、新奇なテーマ、新奇な表現をたえず捜している。表層的な現象に、いかほどの価値があるというのか。
この世界は、余にとって、嫌いなもので満ちている。それゆえ、余は、必要最低限にしか世間とかかわらない。
 誰かが余の家にきて、戸口で、「先生、いますか?」と問われれば、ドアをあけ、会う必要がないと判断した人間は、「いません。本人が言っているのだから、間違いない」と答える。
 家族も嫌いである。妻も、子もいらぬ。特に弟の顔など見たくもない。父が死ぬ前から、弟の家の敷居をまたいだことなどない。親戚は、法事の他に用なし。断言しよう。
 「四畳半襖の下張り」について話そう。これは、大正13年に完成をみた。推敲に推敲を重ねた。余の同人誌、「文明」に「四畳半襖の下張り(1)」を書いたのは、大正5年である。だから、7年かかったことになる。「文明」には、当たり障りのない冒頭の部分だけを掲載した。ペンネームを用いた。まあ誰でも、すぐに余とわかるペンネームだったが、とりあえずそうした。
 「四畳半襖の下張り」をすべて発表すると、筆禍になることはわかっていた。余は、余の愉しみのためだけに書いたのだ。それで満足である。 俗悪な官憲に、余の芸術をわかってもらおうなどとは思わない。
 それはそれで、終わりのはずだった。余が死んでから、余の遺稿を整理していた誰かがひょっこりこの原稿を見つけ、「遺稿を整理していたら、こ、こんなものが出てきましたっ!」とあわてふためく。出版社に持ち込むが、会議の結果、出版の許可が下りない。それはそうだ。良識を持ち合わせている出版社なら、首を縦に振らないだろう。発禁になる可能性が高いからである。
 彼らは所詮、サラリーマンである。発禁になった場合の会社の損害を考える。裁判になったときのリスクを考える。

 余は作家だ。興味があること。それだけに、ピントを合わせて書く。自由にだ。
 だが、発表するのは、自由ではない。それをよくわかっている。過去、発禁になった小説もあるのだ。
 発表する。しないは、作家としての一連の作業を終えた余にとって、どうでもよかった。しるすことが大事なのである。
 問題なのは、書かれなかった場合だ。言葉の芽を摘んでしまうことだ。それは許されない。

 まさか、早産してしまうとは、思わなかった。

25 11時08分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

何がどうなればそうなるのか、カニス氏とハクチョウがふたりで遊んでいる。
「だるまさんが転んだ」をして、楽しそうに遊んでいる。

声は、一切きこえない。
というか、音がない。
音のない世界で、カニス氏とハクチョウは遊んでいる。

「通りゃんせ」で遊ぶ、ふたり。

「ビー玉」で遊ぶ、ふたり。

「メンコ」で遊ぶ、ふたり。

「フラフープ」で遊ぶ、ふたり。

カニス氏は、懐かしい玩具コレクターなのだろうか。
遊ぶ道具をたくさんもっている。

音もない、時もない世界で、ふたりは永遠に遊んでいるよう。

「ケンケンパ」で遊ぶ、ふたり。
ハクチョウは夢中で遊んでいるようだが、飛ぶときに開くのは、やはり片方だけの羽。
それを呆然と見つめる、カニス氏。
やがて、カニス氏はゆっくりとハクチョウに近寄り、そしてそっと抱きしめる。
ハクチョウも、カニス氏を抱きかえしているよう。
音のない世界で、カニス氏とハクチョウは抱き合っている。
互いの傷をいたわるように。

見つめあう、ふたり。
どうやら、ハクチョウが何かを話しているらしい。
ときどきうなずいたり、大仰に驚いたり、悲しみの表情をうかべながらハクチョウの話を熱心に聞く、カニス氏。
カニス氏には、ハクチョウ語がわかるのだろうか。
それでも、静かに語りつづけるハクチョウ。
音は、ない。
声は、ない。

やがて、ひらひらと女性用の衣服が降ってくる。
カニス夫人のものだろうか。
次から次と降ってくる。
それらは、ときどきカニス夫人の姿をかたどることがある。
それに気づき、カニス氏がそこに近寄ろうとすると、それは落下し、その姿は消える。
次から次へと舞い降りる、カニス夫人。
そのたびに、その手に抱きとめようと右往左往するカニス氏。
次から次へと消えてゆく、カニス夫人。

あたりは、カニス夫人で山積みになる。
カニス氏は、カニス夫人の抜け殻に埋まっていく。

ハクチョウは、カニス夫人が降ってくる空をじっと見上げている。

音は、ない。
声は、ない。
時は、ない。

26 11時11分(秘稿のあとさき)

障子に映っている人影が動く。

 昭和16年のことだった。余が書いた秘稿「四畳半襖の下張」が流出している、と耳に入ってきたのは。
 最初は、古本屋からの報告だった。あり得ないことだった。余の部屋の棚の上に、塵だらけになって、紙袋のなかにしまってあるはずのものが、どうして? 謎である。余は、直ちに棚の上にあった塵だらけの紙袋の中身を確認した。紛失したわけではなかった。間違いなく、そこにあった。
 とするならば、考えられることは一つである。偽物である。誰かが余の「四畳半」を筆写し、贋作を作ったのである。そして、それを余の直筆の真作だと嘘をついて、古本屋に持ち込んだのだ。
 犯人は二人。その人物は、特定できている。そんなことができるのは、限られているからだ。余の家に出入りしている門人の二人である。
 「交遊もこれが最後なるべし」と、その一人に絶交を言い渡した。
 怒りのあまり、二人を罵倒する小説を書いた。戦後、発表した。
 余は、胸を撫でおろした。これで終わると思っていたからである。だが、そうはならなかった。
 やがて第二波がやってきた。
 それは、戦後になって、すぐだった。昭和22年のことだ。今度も、情報筋は、古本屋だった。余の字を真似して、出版する準備をしている地下出版社がある、という情報が入ってきたのだ。最初の贋作は、古本屋がなじみの好事家にだけ売ったということだ。広告は出していない。「門外不出」の作として、秘匿されている。流出は痛手だったが、致命的ではない。 今回は、地下出版である。おそらく官憲の摘発を受け、発禁になるだろう。出版社は自業自得だが、余は作者として刑罰を受けなくてはならない。その情報を知った余は、警察にその旨をリークし、手を尽くして、阻止しようとした。だが、無駄だった。出版されてしまった。
 予想通り、その本は官憲に摘発され、本庁に出向くように出頭命令が出た。余は行かなかった。余の本を出版している出版社と知り合いのフランス文学者に行かせた。
 それでは、官憲は納得しなかった。
 やがて余の家に事情聴取にやってきた。

27 11時32分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

 婦人服の山。
 やがて、その山のなかからハクチョウが、まるで湖面から飛び出すように現われ、そのまま婦人服の山の上に座る。
 しばらくして、同じように婦人服の山のなかから飛び出してくる、カニス氏。
 カニス氏も、ハクチョウと並んで婦人服の山に座る。
 カニス氏は、息も絶えだえ。

カニス氏
ふぅ、苦しい、苦しいです。無、無、無呼吸、無呼吸症候群でしょうか。苦しかったですね。恐ろしいですね。本当に恐ろしいものですね、息ができないというのは。

 隣りにいることがもはや当たり前のように、カニス氏はハクチョウに話しかける。。

カニス氏
あなたは、大丈夫でしたか? ああ、あなたは水のなかでも問題ないですものね。私はそうはいきませんからね。水のなかを長く泳ぐこともできなければ、空高く飛ぶこともできません。いまや、歩くことさえおぼつきませんからね。人間というものは、不自由ですね。自分の力で移動もできなくなってしまいます。

 ハクチョウは、いつものようにとぼけた顔を正面に向けながら、隣りのカニス氏をじっと見ている。

カニス氏
ん? ということは、寝ていたのでしょうか? またしても、いつものように私は眠ってしまったのでしょうか? 眠りながら、無呼吸症候群におそわれていたのでしょうか? ああ、どれほど眠っていたのでしょう。

 真鍮製の置時計を見ようとするが、自分が婦人服の山の上にいることに初めて気づく。

カニス氏
ええ!? なんですか、この服の山は! 何ですか? なんで私はこんなところにいるのでしょう? ああ、ああ、そうです、えっ? 夢、夢でこの光景を見ましたよ。え? あれ? ああ、夢です。あれは、たしかに夢です。いつものように、私はいつのまにか眠ってしまっていたのですから。

 まじまじとハクチョウを見つめる、カニス氏。

カニス氏
そうでした。あのとき、あなたの話をきいていたのです。そう、あなたの身の上話を。あれ? どんな話でしたっけ。あれ? 覚えていませんね。どんな身の上話だったでしょうか。とても悲しかったような。具体的な内容は覚えていませんが、とても悲しかったような。あなた、覚えていますか? ああ、いや、そうですね、私の夢ですからね、あなたが登場していても、基本的にはあなたのあずかり知らぬことですものね。でも、でもですよ、リンクする場合もあると、夢同士がリンクする場合があると、そんな話を聞いたことはありますよ。どうです? そんなことは起きていませんか?

 ハクチョウは、とぼけた顔を正面に向けたまま。

カニス氏
あのとき、あなたはどんな言葉を使ったのでしょうね。人間の言葉を話したのでしょうか。それとも、私がハクチョウ語を理解していたのでしょうか。あるいは、テレパシーとか。ああ、テレパシー。それも、不可能とは言いきれませんからね。

 カニス氏、じっとハクチョウをにらみつける。
 どうやら、テレパシーで話しかけているよう。
 だが、ハクチョウは相変わらずとぼけた顔を正面に向けたまま。

カニス氏
(大きく息をもらし)はい、テレパシーではないようです。まあ、あなたは私の言っていることを理解しているようですし、あなた自身はまったく声を出しませんからね。現状、問題ないといえば、問題ないですけどね。

 カニス氏、自分が置かれている状況にあらためて気づかされる。

カニス氏
ああ、ああ、ああ、もしかしたら、私は無呼吸症候群ではなく、実際にこの服の山のなかで溺れていたのではないでしょうか。ああ、そうです、きっとそうです。ああ、海のようなこの服の山のなかで・・・・・・、えっ? この服の山はどうしたことでしょう。ああ、そうです、そうでした、衣替えです、衣替えですよ。しかも、女性の衣替えです。ああ、予想通りです、予想通りでした。そうです、そうですよ、ただただ散らかすという結果になっています。

 ハクチョウが、同情するかのようにちょっとだけ鳴く。

カニス氏
わかっているのですよ。私にだってわかっているのです。ケアマネやヘルパーには、何のためかもわからない無意味な行為を、私がただ闇雲に繰り返しているように見えるのでしょうけれど、その行為ひとつひとつにはそれぞれそれなりの理由があって、ただ、それがここのところ結果として失敗することが増えてきていて、それがはた目には意味不明なこととして映ってしまう。そうです、わかっているのです。失敗したなと、私にだってわかっているのです。ただ、そんなことは口にしませんがね。失敗していることも、その目的も。なんなら、「ありがとう」も「ごめんなさい」も私は言いませんからね。そんなことを言っても、どうせ理解されないでしょうし、あの人たちのためにやったことも、あの人たちにとっては意味不明な行為でしょうから。なぜなら、失敗していますからね。私は失敗していますから! 後悔ばかりですよ。そんなことは、言いませんけどね。ああ、やはり女性の衣替えなど、私には不可能なのです。

 カニス氏、婦人服の山の上にゴロンと横になるが、すぐに起き上がる。

カニス氏
今、何時なのでしょう?

 カニス氏、婦人服の山から転げ落ちるように降り、真鍮の置時計をのぞきこむ。

カニス氏
えっ、もうお昼になるではありませんか。

 電話が鳴る。
 カニス氏、一瞬躊躇する。
 その間に、電話はふいに切れる。

カニス氏
何でしょう。空き巣が在宅かどうかの確認をしているのでしょうか。あっ、それとも幽霊からの電話だったりして。ウヒウヒウヒ・・・・・・。(いらだっているのか、なぜか陰湿に笑う) ハクチョウの世界にも、幽霊はいるのでしょうかね。ウヒウヒウヒ・・・・・・

 電話が鳴る。
 なぜか、恐るおそる受話器をとる、カニス氏。

カニス氏
はい、もしもし、もしもし、もしもし・・・・・・

 カニス氏は、しばらく黙っていたが、やがて不安そうにそっと受話器を置く。

カニス氏
何でしょう。誰なんでしょう。何も言いませんでしたね。聞こえてきたのは、あれは水の音でしょうか。水がわいてくる音と言った方がいいでしょうか。ちょっと気味は悪いですが、美しかったです。美しい水が湧きでる音でした。

 電話が鳴る。
 躊躇するカニス氏。
 その間に、電話はふいに切れる。

 電話が鳴る。
 今度はすぐに受話器をとる、カニス氏。

カニス氏
はい、ああ、はい、どうしました? ケンカ? どうしてケンカなどするのです。えっ? ですから、それはそういうことではないと思いますよ。そんなことをしても、看護師さんに何のメリットもないでしょう。何の得にもなりませんからね。熱があるんじゃないですか? 余計なことに神経をつかっていたら、良くなるものも良くなりませんよ。はい、ですから、焦ってはいけません。今まで辛抱強くがんばってきたのですから。それを、台無しにするようなことをしては何にもなりません。先生、看護師さん、そして何よりもあなた自身、みんなでがんばってきたのですから。らしくありませんね。いつものあなたは、そんなんじゃないでしょう。大丈夫です。熱が出ると、不安になりますからね。大丈夫ですよ。ゆっくり気を休めて眠れば、大丈夫です。気を張って、神経を使いすぎないことです。休みましょう。ゆっくり安めば大丈夫です。そうです。そうですよ。はい、はい。

 受話器を置く、カニス氏。
 すぐに、電話が鳴る。
 躊躇するカニス氏。
 電話は、ふいに切れる。
 カニス氏は、じっと電話を見つめている。

 電話が鳴る。
 すぐに受話器をとるカニス氏。

カニス氏
はい、ああ、どうしました。はい、はい、はい、えっ? いえ、病院ですよ、そこは病院です。あなたはずっとそこにいるのですよ。そうです、今いるその病室からどこにも出ていませんよ。どうしてです。スーパーの鮮魚売り場の片隅に、病院用のベッドで寝ているなんてことが起きるわけないじゃないですか。誰が何のためにそんなところへ運ぶのです。はい? 駐車場にも行っていませんよ。踏切の脇でもありません。病人を外へ放置しませんよ。はい、病院です。そうですよ、もうずっとあなたはその病院から出ていませんからね。北海道? あなた、北海道にいるんですか? 北海道には行ったことがないと言っていたではないですか。それに、私はどうやって一日おきに洗濯物を北海道に届けているのですか? 自転車? 靴のサイズの歩幅でしか歩けない私が、どうやって自転車に乗ることができるというのです。しかも、北海道まで。ここをどこだと思っているのですか。夢です。夢でも見たのです。そうですよ。ソ連兵? 病室に? 何人ぐらいですか? そんなに? 怖かったでしょう。 えっ? 礼儀正しい? 礼儀正しいソ連兵? 何か言っていましたか? 何も? そうですか、ただお辞儀をね。何かお礼にでも来たのかしらね。あなたが子どもの頃に遭遇したソ連兵とは、ずいぶん印象が違いますね。というか、それは夢ですから。夢なのですよ。今、ちょっと強い薬を処方しているしょう? ちょっと強い痛み止めを使っているのです。そうです、薬のせいです。薬のせいですから、何も心配することはないのですよ。そうです、大丈夫、大丈夫です。眠れるときに、眠るのですよ。ああ、そうですね。熱がね、そのための薬も使ってますからね。そうです、はい、ゆっくり休んでください。はい、はい。

 カニス氏、受話器を置く。
 当たり前のように、ハクチョウに話しかけるカニス氏。

カニス氏
痛み止めがね、それがね、なかなか効かなくなってきていましてね。かなりきついものを使っているのでね。夢なのか、幻覚なのか、自分がどこにいるかもわからなくなるような、意識がね、混乱するような、そんな状態になっているのです。辛いでしょうね。

 電話が鳴る。
 すぐに受話器をとる、カニス氏。

カニス氏
はい、どうしました? あなた、忙しいですね。ゆっくり休んだ方がいいですよ。また悪い夢を見たり、妙なものを見たりしますからね。名前? えっ、名前を忘れたのですか? 自分の名前を? 自分の名前を思い出せないのですか? ああ、そうですか、そうですね、そういうこともありますよ。熱のせいです。いえ、大丈夫です。こうやって私に電話してきているのですから、電話ができるのですから、大丈夫。深呼吸をしてください。ハハハ、そうです。イライラすると呼吸も浅くなって、体が休まりませんからね。名前なんて、名前なんてね、そう、大したことではないです。しばらく休んだら、思いだします。とにかく休んでください。普通の人でも、熱が出て暴れたら、熱は上がりますよ。はい、そうです、そういうことです。はい。

 受話器を置く、カニス氏。

カニス氏
名前なんてね、たとえ自分の名前でも、忘れたからといって、大した問題ではないです。大切な人のことがわかれば、名前なんて・・・・・・

 電話が鳴る。
 一瞬おびえたような、カニス氏。
 ふいに切れる電話。

 電話が鳴る。
 少しいらだったような、カニス氏。
 ふいに切れる電話。

 電話が鳴る。
 疲れたような、カニス氏。
 ふいに切れる電話。

 静寂が訪れる。
 ただ、雨音だけがつづいている。

カニス氏
しんどいですね。消耗します。正直、私も消耗します。病気のこともそうですが、それにともなう精神的な問題は、消耗させられます。(ハクチョウに)でも、あなたがいてくれて、いつもよりほんの少しだけ楽です。いろいろ考えます。いろいろ考えますよ、どうしたら楽になれるかとね。この状況は、いつまでもつづくでしょう。いつまでもつづくこの状況のなかで、私が楽になる方法は、ひとつしかありません。そんなことは、とうてい願えるはずもありません。そんな残酷な、呪われたような願いなど、抱けるはずがありません。ですから、そんな不条理な選択を迫られないように、私は元気でなくてはならないのです。どんなにしんどくてもです。

 電話が鳴る。
 気を取り直して、受話器をとるカニス氏。

カニス氏
はい、もしもし、えっ? いえ、違います。違いますよ。それで、カニスと読むのです。名前は、重要ですよ。それをいきなり間違えてどうするのですか。何度言ったらわかるんですか。初めて? あなたは初めてでも私はもう何度も何度も言っているのです。それで、カニスと読むのです! これだけ言っているのに、どうして営業の世界には普及していないのでしょう。それに、私の生まれ育った町では、ここからそう離れてはいませんが、その町ではカニスだらけでしたよ。小学校のクラスの半分近くが、カニスでした。はい、大袈裟です。それほど多かったということですよ。ウヒウヒウヒ。(いらだっているのか、陰湿に笑う) 金のアクセサリー? 金時計? この期に及んで、見ず知らずの人からも何かを探せとどうして言われなければならないのですか! 怒っていませんよ。どうして、私が怒らなければならないのです。ああ、わかりますよ。こんなご時世ですからね。でもね、でもですね、今は衣替えです。そう、衣替えなのです。これ以上、何かを探すということは不可能な状況なのです。ご理解いただきたい。はい、そうです、その通りです、はい、では、失礼しますよ。

 カニス氏、受話器を置く。

カニス氏
だれひとり、カニスという名前を読めません・・・・・・

 ふいに何かの不安におそわれたかのように、カニス氏は立ち上がり、ソワソワしばじめる。
 そして、婦人服をいきなり片づけはじめる。
 とても丁寧とは言えないが、とてもテキパキとはいかないが、どんどんタンスの引き出しに婦人服をしまっていくカニス氏。

カニス氏
人の一生には、かならず四季があるものです。若くして突然その人生を絶たれた若者でも、大往生の老人でも。誰にでも、移りゆく四季が。そして、最後の冬の終わりが見えたとき、誰でも不安におののきます。長く生きてきたからといっても、それは若者と同じです。四季の最後は、激しく寂しいものです。みな、同じです。そうそう人の心は、医者のマニュアル通りにはいきません。

 ふと、作業の手を止めるカニス氏。

カニス氏
(ハクチョウに)もしかして、あなたは一年ここにいましたか? ここの四季を体験していますか? そんなことを、そのようなことを、あなた言いませんでしたか? あのとき、そう、あのときです。ああ、それは夢のなかだったかもしれません。夢のなかでも、あなたはそう言いませんでしたか?

 ゆっくりと羽を広げるハクチョウ。
 もちろん、片方だけの羽を。

カニス氏
そうでした、そうでしたね、思いだしましたよ、あなたは・・・・・・

 電話が鳴る。
 緊張するカニス氏。

 その瞬間、鳥のけたたましい鳴き声がきこえてくる。
 6羽のハクチョウが、大きく羽を広げて飛んでくる。
 片方の羽だけを広げた飛べないハクチョウの上を、6羽のハクチョウは旋回する。
 悲痛な鳴き声を上げながら。
 その声に、血を吐くほどの悲痛な声でこたえる片翼の飛べないハクチョウ。
 別れのとき。
 別れのとき。
 別れのときが、近づいている。

 けたたましいハクチョウたちの悲痛な声の背後に、かすかに電話の無機質な音が鳴っている。
 やがて、激しい雨音がすべての声、音を飲みこんでいく。

28 11時50分(秘稿のあとさき)

障子に映っている人影が動く。

 昭和11年のことだ。余は、思いついて、余がつきあった主だった愛人の人数をかぞえてみた。
 余が満五十六歳のときである。
 名前、付き合った期間、素性などを書き出してみたのである。臨時の女は含めない。また、若い頃は遊女遊びをしていたが、それも除いた。素性がわからないからである。16人だった。最初の妻は入れない。父親に無理矢理押し付けられた女だったからだ。
 どうしてそんな、はしたないことをするのか、と問われれば、余は、人生を記録したいからである。そう返答しよう。余がどのように生きてきたか、何をしてきたか、それを記録して残しておきたいのだ。
 それだけだ。そのために日記をつけている。
 ここ数年で、ライフハックという言葉を知った。「人間の生活・行い・体験を、映像・音声・位置情報などのデジタルデータとして記録する技術、あるいは記録自体のこと」とウィキペディアにある。余は、余の人生をハックしたいのだ。デジタルデータではなく、手書きの日記によって。
 その日記を「断腸亭日乗」と名付け、秘かに書き続けている。一日も漏らさずにだ。
 余は、余のことを日記に全部しるしたい。
 これは病気である。
 そう、病気なのだ。取り憑かれているのだ。狂おしいくらいに。

 余は奇人と呼ばれている。それは知っている。ネットで「昭和文壇の奇人ベストワンは余だ」という記事を読んだ。余は、それを否定するものではない。
 だが、それが何だというのだ。奇人で何が悪いというのだ。
 余は、一向にかまわないのである。

29 12時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

ありす
……宮沢賢治の『猫の事務所』は、主に猫の歴史と地理をしらべる仕事をしていて、事務所内には一人の事務長と四人の書記が働いている。事務長は大きな黒猫で、少しモウロクしてはいたが、じつに立派な猫である。猫の第六事務所の書記の数はいつも四人と決まっていて、ここで働くというのは、ネコ的には相当のステイタスである。第一書記の白猫、第二書記の虎猫、第三書記の三毛猫。そして第四書記がかま猫である……かま猫は他の三人の書記から様々な嫌がらせを受けている。挨拶をしてもシカトされたり、事あるたびにインネンをふっかけられたり、かま猫の大事な帳簿を隠されてしまったりと、散々な目に遭っている……それでも、彼はそうしたパワハラに対して「どんなにつらくてもぼくはやめないぞ、きつとこらへるぞ」と泣きながら、にぎりこぶしを握り続けるのだが、やがて耐えられなくなって、ひるやすみの弁当も食べず、ひるすぎの1時からしくしくと泣きはじめ、そして晩方まで3時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしていた。三人の書記官はそれを一向知らないというように面白そうに仕事をしていたが、そんな様子を事務所の窓の外から金いろの頭をした獅子が見ていて「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要つたはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命じる」と言い放ち、事務所は廃止になった……はずである。宮沢賢治先生の作品中、私的にはもうどうにも辛くて、やるせない気持ちにさせられる第一位を獲得した話だ。ああ、このかま猫は私のことなんだようっと、自己投影の果てに慟哭を禁じえない作品なのだ。しかし、それにしても……なぜ? 私はひょっとして幻聴を聴いているのだろうか? 焦りと疲れからメンタルが崩壊してしまったのだろうか? ……いや。いやいやいや、今はそんなこと考えても、どうなるものではない。メンタルが崩壊しようが、戦争が明日始まろうが、今、私がやらなければならないことは一つしかないのだ。余計なことを考えている場合ではないのだ。集中しろ。自分のことだけを考えろ。今は……非常事態なのだ。

と、突然、部屋の明かりが消える。

ありす
あっ!

間。暗闇の中。

ありす
……えっ? うそっ! やばっ! 電気止まったっ!

どたばた音。

ありす
うそっ! マジ? やばっ! なんでだよっ! なにしてくれてんだっ! 東京電力っ!

暗闇の中。

ありす
ひいいいっ! 上書きしてないいいっ! 嫌あああっ!

ありすの悲鳴の中、遠くでオスプレイの飛行音が微かに……。

30 12時20分(秘稿のあとさき)

障子に映っている人影が動く。

 「荷風!」という雑誌があった。2010年前後に出ていたようだ。「時を越えて遊ぶ、大人の時間旅行ガイド」というのがうたい文句である。
余の名前を冠しているが、全ページ、余について書かれているわけではない。要するに、東京界隈の旅行ガイドである。
 特集ごとに、余について書かれたコラムが、申し訳程度に載っている。「東京人」「散歩の達人」みたいなものだが、余とは直接、関係がない。
 詳しいことは知らないが、現在は、休刊、あるいは廃刊しているようだ。
 余が言いたいのは、奇人と言われた余が、どうして雑誌のタイトルに使われても遜色がないほどの人気があるかということだ。
 余は、日課として散歩をしていた。したいから、していただけなのだが、なぜか、東京散歩人として人気が出た。
 世間はわからぬものだ。
 急に思い出したが、「戦後の荷風作品はすべて読むに堪えぬもの」と石川淳が書いたことがある。
 「荷風の生活の実情については、わたしはうわさばなしのほかはなにも知らないが、その書くものはときに目にふれる。いや、そのまれに書くところの文章はわたしの目をそむけさせた。小説と称する愚劣な断片、座談速記なんぞにあらわれる無意味な饒舌、すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。書くものがダメ。文章の家にとって、うごきのとれぬキメ手である。どうしてこうなのか。荷風さんほどのひとが、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手のとどかぬうちに、どうすればこうまで力おとろえたのか」
(中略)
「今日なおわたしの目中にあるのは、かつての妾宅、日和下駄、下谷叢話、葛飾土産なんぞに於ける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い」
ふざけるな、と余は言いたい。死んでから書くな。
いやいや、余は、死んでいないが。

31 12時51分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

 婦人服の山は消えたが、いまだそれらは散乱している。
 洗濯物は乾かず。吊るされたまま。
 タンスたちは、微妙に位置をずらされたまま、中のものが顔を出していたりしている。
 ベッドの周りには、ガラクタともいえる普通ゴミに出せない分解されるのを待つ小さな電化製品などが積み上げられた壁。
 カニス氏とハクチョウは、ベッドの上に並んで立っている。
 カニス氏は、船のキャプテンのように双眼鏡で外を見ている。
 ハクチョウは、片翼を力なく広げて上を向いている。
 やはり、雨音はつづいている。

 飛び去って行く6羽のハクチョウたちのけたたましい悲痛な声が、遠くでかすかにきこえる。だが、その姿はもう見えない。
 残された片翼だけのハクチョウも、すでに鳴くことをやめている。

カニス氏
とうとう行ってしまいましたね。お仲間たちは飛び立ってしまいました。北へ、北へ向かって飛び去ってしまいました。そして、あなたは残りました。ひとりだけ残りました。ここに、残りました。どんな理由であれ、一度渡ることをやめたハクチョウは、二度と飛び立つことができないといいます。あなたは、二度とここから飛び立つことができない。もう二度と。あなたは、渡り鳥ではなくなってしまった。

 ハクチョウは、うなずくように小さな声を上げながら首を下げ、ふたたび上げる。

カニス氏
みんな、北へ向かいました。あなたを残して、みんな北へ。私の父もかつて北へ向かいました。樺太という北の島へ。何も覚えていませんが、私が生まれた島。ちなみに、私の妻の父親は、北朝鮮へ向かいました。どうして、父たちは北へ向かったのでしょうね。その後、私は父の仕事の関係で樺太から東京の下町へ移り、小学校の半分をそこで過ごしました。その後、ここ、父の故郷であるここに来たのです。戦争です。戦争のためです。集団疎開でした。50人ほどだったでしょうか。東京に残っていたすぐ上の姉は、空襲でかぶっていた防空頭巾に火がうつり、大やけどをしました。その姉も、やがてここに来ました。父の故郷であり、私の故郷ともなった、ここ、福島へ。

 双眼鏡をより顔に押しつけ、臨戦態勢のように前のめりとなるカニス氏。

カニス氏
また増えています。増えていますよ。ご覧なさい、あの黒いゴミの山を。今日もまた黒いゴミが積みあげられていきます。この雨と同じ色をした、人間が生み、そして人間にはどうすることもできないゴミが。もうすぐ置き場所もなくなります。どうするのでしょうね。どうするつもりなのでしょうね。
 どうして、私の妻は血液の病気になったのでしょうか。人生の終わり近くなって、どうして突然。妻が入院してから、庭の薔薇たちは花をつけなくなってしまいました。口をつぐんでしまったようです。あるいは、言葉を失ってしまった、言葉を奪われてしまったようです。妻がいなくなったためでしょうか。それとも、あの日から降りつづける、この黒い雨のせいでしょうか。もう誰も気にとめなくなった、降りつづけるこの黒い雨。
 そして、あの日を日常のなかに埋没させて見えないようにし、何もなかったかのように、忘れるというまやかしの安心を手に入れようとしている今、実際の現実は何も変わってないどころか、私たちをむしばみつづけている今このとき、その偽りの日常をはぎ取るようにふいに襲いかかってきた、もう一度思い出させようとするかのように、目に見える形で私たちに襲いかかってきた、……未知の疫病。そんなふうに私は思うのですよ。妻を病気にさせたものが、今度こそ忘れるなと残酷な爪をたててきたと。私は忘れていないのですけどね。地元ですからね。忘れたくても、忘れろと言われても、忘れることはできません。毎日黒いゴミが積み上げられていくのを目の当たりにして、どうして忘れることができましょうか。それなのに、私は妻の面会も禁止されている!

 双眼鏡を下ろし、ハクチョウにしみじみ語りかけるカニス氏。

カニス氏
もしかしたら、もうあなたは知っているのかもしれないですが、ここの夏は厳しいですよ。大丈夫でしょうか。シベリアを故郷とするあなたは、大丈夫でしょうか。それでも、誰かと一緒にいることができれば……。隔離されていようが、そうでなかろうが、ひとりは厳しいですからね……。ねえ、あなたはどうしてここにいるのです? どうして私の家に?

 ふと、何かに気づき、あわてて双眼鏡を外へ向けるカニス氏。

カニス氏
ん? 何でしょう。猫ですね。ん? また猫ですね。ん? 次から次へと猫が走っていきます。すごい数ですよ。どうしたのでしょうね。みな、険しい顔で走っていきます。何かあったのでしょうかね。逃げているのでしょうかね。動物が集団で逃げていく光景は、どこか不吉な未来を予感させられ、不安になりますね。何事もなければいいのですが。

 電話が鳴り、突然、現実が戻ってくる。
 ゆっくりと受話器をとるカニス氏。

カニス氏
はい、ええ、ええ、はい、ああ、いえ、かまいませんよ、はい、私のほうはかまいません、1時間ですね。はい、わかりました、ええ、ええ、私のほうは大丈夫、大丈夫です。では、3時に。

 受話器を置くカニス氏。

カニス氏
(ハクチョウに)訪問看護師です。今日の訪問は、1時間遅らせてほしいとのことです。少し時間ができましたね。ええと、ところで、いま何時なのでしょう。

 真鍮製の置時計をのぞきこむ、カニス氏。

カニス氏
ああ、もう1時になるではありませんか。あれ? 私たち、お昼をいただきましたっけね。いただいてないですよね。ねえ、そうですよね。そう思ったとたんに、お腹がすきました。お腹、すいてきましたよね。

ふたたび、電話が鳴る。

カニス氏
はい、カニスです。あっ、はい、お世話になっています。何かありましたか? えっ? はい、熱があるのはきいています。えっ? はい? なんですって? 陽性? 陽性って、どういうことですか? どうして、どうしてそんなことに? 原因は何です? どうして、妻が、入院している妻が、守られているはずの妻が、どうして感染するんです? どうして、どうしてですか? どうして、どうしてそんなむごい目にあわなければならないんです? どうして? あまりにも理不尽じゃありませんか? 先生、先生! ええ、ええ、でも、感染したからといって……、はい、でも、でもですね、はい、リスクはあるでしょうが、でも、はい、いえ、誰も責めているわけではありません、ありませんが、はい、はい、とにかく最善を尽くしてください。面会は、面会はできないんですよね。はい、はい、そうしていただけると、はい、検討してください、はい、はい、何か方法を考えてください。お願いします。はい、はい、では、連絡お待ちしてます。はい、よろしくお願いします。

 険しい顔で、受話器を置くカニス氏。

カニス氏
どうして、妻は選ばれたのでしょう……

 ベットに力なく腰を落とし、呆然とするカニス氏。
 雨音だけが、きこえている。
 やがて……

カニス氏
……妻が入院してから、いろいろ考えました。いろいろ考えさせられました。毎日々々、いろいろなことを。自分についてもたくさん考えました。でも、いつのまにか考えていたのは、ひとつのことだけでした。
 最初に医師は、おそらくマニュアルにあるのでしょうが、最悪のケースから話されました。病状ももちろんですが、具体的な延命措置についての確認などを。死の宣告は、若かろうが、年老いていようが、その残酷さは同じです。そう思いました。長く生きてきたからといって、軽くなるようなものではないのです。もう十分に生きたからもう死んでもいいなどと、死の宣告を受けて即座に考えられる人はいないと思います。死は、誰にとっても平等です。
 それでも、妻は奇跡的な生命力で、医師の予測を裏切りつづけ、最悪の事態にあった末期癌を克服していきました。もちろん、一進一退を繰り返し、何度かの危篤状態を乗り越えて。私は考えつづけました。ひとつのことを。たったひとつのこと、「尊厳」、命の「尊厳」のことだけを。
 無防備となった瀕死の妻の命は、みずから「尊厳」をもつことはできません。ということは、誰かが与えなければならないのです。「尊厳」は。誰かが与えてはじめて生まれるものなのです。この1年、私のしてきたことは、そのことだけです。妻の命に「尊厳」を与えるという、そのことだけ。だから、私もがんばれたのだと思います。妻の最後の言葉が「いい人生だった」と、それだけをききたくて。そのひと言だけを妻に言ってほしくて。それが、私にとって、妻の命が「尊厳」をもったという証ですから。
 それなのに、それなのに、その言葉をきくどころか、もしかしたらもう二度と会うことができないかもしれない、もしかしたら次に私が会うのは、妻の骨かもしれない……
 今度は、今度は、今度はどう乗り越えればいいのでしょう……

 やり場のない気持ちをどこに吐き出せばいいかわからず、カニス氏は吊るされたカニス夫人のものと思われる洗濯物を、杖で乱暴に叩き落としはじめる。
 だが、足取りもおぼつかず、何より暴力的な行為でその気持ちを昇華させられはずもなく、カニス氏は力なく座りこむ。
 そっと寄り添うハクチョウ。

 雨は強くなるばかり。

32 13時19分(秘稿のあとさき)

障子に映っている人影が動く。

 官憲に説教をされたことがある。昭和二年のことだ。その女は銀座のカフェの女だった。声をかけ、いい仲になったまではよかったが、余の家にまできて、金を要求してきたのである。
「半分いただきたいつもりです」女がいう。
「半分。百円の半分か」と余が問う。
「いいえ」
「じゃ、千円の半分か」
「いえ」
「じゃ、いったい何の半分だ」
「あなたの財産の半分」
 冗談じゃない。頭がおかしいのか、この女は。とりあえず、余は持ち合わせていた百円を渡して、その女を帰した。
 翌月、その女はまた余の家にやってきて、金の無心をする。今度は五百円だ。しかもなかなか帰らない。おそるべき女だ。
 やっと帰したと思ったら、三日後にまたやってきた。これでは、たまらない。仕方がないので、お手伝いの老婆に余は旅行中といわせて対応させ、裏口から逃げ出した。電話で派出所に助けを求めた。巡査が駆け付け、その女は連行された。
 翌日、巡査がやってきて、警察署まで同行しろという。その女は、そこの留置場にぶちこまれていた。事情聴取を受け、夕方、またこいという。
 夕方、弁護士といっしょにその警察署に出頭した。
「こんなくだらないことで警察の厄介になるなんて馬鹿だ。女を買うのは自由だ。だが、その後始末を警察に持ち込むな」
 そしてその男は、女に向かって、
「おまえも、年が二十七、二十八になれば、男のいうことを真に受けるやつかあるか。おまえは、だまされたのだ。金をほしがっても、ことは解決しない。今日は放免するから帰れ」
 巡査は腐った大福を一口噛んでは吐き出すような調子でいった。官憲とは、どうもそりかあわぬ。でもとにかく、その女とのことは、これで解決した。
 翌日、さっそく余は、べつの女(芸者)のところにいったのである。こんなことで懲りる余ではないのだ。

33 13時42分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

 ベッドの上には、ハクチョウ。
 カニス氏は、またしてもタンスの位置を変えている。
 足元は覚束なく、ドタドタしているが、カニス氏にとっては厳粛な作業。
 それでも、今回は明らかに部屋に空きスペースをつくろうとしている。

カニス氏
私のポジションを決定しているのは、実は私ではなく、私以外の誰かです。そうなのです、私以外の誰かが私のポジションを決定しているのです。それは、誰かが私をそこに置いて私を位置づけるというのではなく、その誰かとの間に生まれた距離によって、そうです、その距離によって、私のポジションが決定されるのです。そういうことなのです。もちろん、そのとき私以外の誰かのポジションを決定しているのは私となりますが。ふたりの距離、それこそがふたりのポジションを決定しているのです。
 ですから、ですからね、いま私は私以外のもののポジションを変化させて、私の新しいポジションを決定しようと思うのですよ。いえ、これは正確ではありませんね。誰かのポジションを私の意向だけで強引に移動させることはできませんからね。そうです、そうですよ、距離というのは線ですね。距離は、線によって測られます。その距離をですね、線であらわすのではなく、例えば、例えばですよ、壁としてあらわしたらどうでしょう。つまり、距離をあらわすのに、線から壁へと変換させるのです。つまり、つまりですよ、距離を、壁の単位であらわすのです。壁ならば、距離としてあらわされた壁ならば、そこに変化を加えることが可能になるのではないでしょうか。そうなれば、そうなればですね、現在の私のポジションを変えることができるでしょう。正確には、私と誰かのポジションを新たに組みなおすことができるようになるでしょう。そうです、そうですよ、ちょっと想像してみましょう。世界地図、世界地図をですね、線ではなく壁によって記述する、記述しなおす、はたしてそれはどんな姿をとるのでしょうね。

 ハクチョウは、ベッドの上で動かない。

カニス氏
あっ、私、エンジニアだったんですよ。昔の話ですからね、エンジニアといっても相手にしていたのは、いまのようなコンピューターなどではありません。工場で使う機械です。小さなものからとても大きいものまで。特殊な運転免許ももっていましたよ。まあ、そういったものを扱っていたわけです。それでも、それでもですね、まあ、数学的なといいますか、工学的なといいますか、そんな分野を専門にしていたわけですよ。好きでしたね。よく数学のパズルで暇をつぶしていました。あるいは、何百年も解けない数学の未解決の命題に夢心地になったりもしましたね。戦争で物がなかったですからね。空想するのが一番の遊びでした。兄弟が多かったものですからね、戦後のあわただしさのなかでいろいろな仕事につきましたけど、結局エンジニアで落ち着きました。遊びが少し役に立ったのでしょうかね。

 ハクチョウは、ベッドの上で動かない。
 タンスは、効率的に配置され、少し部屋に空きスペースが生まれてくる。
 カニス氏は、散らかった衣類を少々乱暴ではあるが、タンスに収めていく作業に移っている。

カニス氏
いま、あなたはどこにいるのでしょうね。そう、「ここ」にいる。でも、そのあなたにとっての「ここ」というのは、誰によって決定されたのでしょう。いま、私はどこにいるのでしょうね。そうです、「ここ」です。では、わたしにとっての「ここ」は誰が決定したのでしょう。あなた以外の誰か、例えば北へ向かったあなたの仲間たちとの関係であなたは「ここ」にいる。私以外の誰か、例えば私の妻との関係で私は「ここ」にいる。そのふたりが「ここ」にいます。はて、その上で私たちのポジションはどうしたらよいのでしょう。何重にもわたる誰かによってやっと決定されている私たちのポジションを。私たちの壁をどうとらえ、どう考えたらいいのでしょうね。

 ハクチョウは、ベッドの上で動かない。
 カニス氏、タンスの中に何かを見つける。
 いつのものかわからない煎餅の袋。中身も入っている。

カニス氏
はて、どうしてこんなものがここに入っているのでしょう。いつ入れたのでしょうか。それより何より、どうして入れたのでしょうね。どんな必要性があったのでしょうか。不思議ですねえ。わかりませんねえ。

 首をかしげながらも、作業をつづけるカニス氏ではあったが、またしても別のところで何かを見つける。
 ひとつの箱。それは、高級というわけでもなさそうな、それでもデザインが美しいお菓子の箱。不審そうに箱のふたを開けるカニス氏。すると、また同じように箱。そのふたを開けると、またまた箱。それは繰り返されるが、箱の質は徐々に悪くなり、最後はよれよれのキャラメルの箱が出てくる。

カニス氏
何ですか! 何のつもりですか! 何をしているのでしょう。私でしょう、私でしょうね、私の仕業でしょうね。意味がわかりません。目的もわかりません。何をしているのでしょう。隠していたのでしょうか。隠していたのを忘れていたのでしょうか。そうなのでしょう、おそらくそういうことなのでしょうね。でも、私は隠したことさえ覚えていません。というか、どうしてこんなものを隠さなければならないのか、それがまずわかりません!

 もしやと思い、カニス氏はタンスのいたるところを探しはじめる。
 出てくる、出てくる、出てくる、飴などのお菓子類、何に使うかわからないビスのようなものたち、肉や鮮魚を入れていたであろうトレーの束、等々。

カニス氏
まるで犬ではないですか。犬ですか。私は犬ですか! 捨てましょう、捨ててしまいましょう、ここは思いきって捨てることにいたしましょう。人間らしく捨ててしまいましょう。捨てるのが、捨てることができるのが、ある意味、人間というものですからね。

 根拠のない、あるいは習性としてなのか、ある種の未練を感じながらも、カニス氏はゴミ袋にそれらを放りこんでいく。
 そして、片づけの作業に戻っていくカニス氏。

カニス氏
いまの私たちのポジションを決定しているのが、何重にもわたる誰かたちの積み重ねの結果だとしたら、それを壁であらわすのは何か歴史を紐解くような感じがしますね。ん? 壁とは、時間ですか? 距離とは、時間ですか? いえ、距離を時間としてとらえなおすための壁ですか?

 ふと、何かを思い出した様子のカニス氏。
 タンスのいろいろな引出しをあけはじめるカニス氏。
 そこからは、大量の書類。書類といっても、その大半は請求書や領収書などではあるが。

カニス氏
この済んでしまった請求書やら領収書やらは、まだ必要なのでしょうか。いつまで手元に置いておけばいいのでしょうか。いまだかつて、必要になった記憶がありませんね。まったくありません。捨てましょう、捨ててしまいましょう。人間らしく捨ててしまいましょう。

 それらを捨てるカニス氏。
 勢いにまかせて、いたるところに置いてある書類ともごみともつかないものも、次々と捨てていくカニス氏。
 そして、引出しの空いたスペースに、残っていた衣類などを放りこむ。
 そのなかで、またしても何かを見つけるカニス氏。
 数冊のアルバム。
 それを丁寧にとりだし、ベッドの上に置き、あらためて部屋を見まわすカニス氏。
 ずいぶん空きスペースが生まれている。

カニス氏
 最大限のスペースを確保できたのではないでしょうか。

 カニス氏はベッドに座り、あらためてアルバムの1冊をとりあげ、それを開く。

カニス氏
おお、樺太です。樺太の写真です。父が撮っているのでしょうね。やっと歩けるようになったばかりの私と母とふたりの姉です。若いですね、母はこのときまだ二十歳そこそこでしょう。このあと、母は妹とふたりの弟を生むことになります。面白いことに、一番上の姉が生んだ子と、母が最後に生んだ子は同い年です。つまり、叔父と甥が同級生なのです。いま思えば、すごい時代でしたね。

 ハクチョウも、アルバムをのぞきこんでいる。

カニス氏
ただ、ただね、妻はこういう写真をもっていないのですよ。終戦を北朝鮮でむかえましたでしょう。1年あまりの抑留生活を余儀なくされて、そして決死の38度線越えです。なんとか無事に帰国できたのはいいのですが、もっていた写真などはすべて没収されてしまいましたからね。妻には、15歳までの写真がないのですよ。

 小さな鳴き声をもらすハクチョウ。

カニス氏
壁は複雑に、とても複雑に入り組んでいるようです、さて、その壁たちをどうしたものでしょう。どうしたものでしょうね。時間は、いまこの瞬間の集積です。私たちは、この瞬間しか生きることができません。過去に戻ることも、未来を先取りして生きることもできません。ならば、私たちが変化をうながせる壁は、私たちが生きているこの瞬間のなかにしかないということになります。この瞬間の壁。それは、目の前にあります。すぐ目の前にあります。私たちは、いま壁に囲まれています。目には見えなくても、たしかに目の前に壁があります。確実に私たちは隔離、そう、隔離されています。距離としての壁。時間としての壁。とてもやわらかい壁に。どうしてでしょう。誰によって私たちはやわらかい壁で隔離されているのでしょう。

 突然なにかに思いいたり、癲癇を起こしたかのように奇声を上げるカニス氏。
 アルバムは、乱暴に閉じられる。

カニス氏
そうでした! そうなのでした! 壁をもたないのです。そうです、彼らは壁というものをもっていませんでした。そうです、そうなのです、壁をもたないものたちなのです。彼らは、いかなる壁ももたない。そうです、そうなのです、壁をもたないものたちによって、私たちは自ら壁のなかに閉じこもらざるを得なくなったのです。そうでした、そうなのでした、私たちの壁は、壁をもたないものたちの何かによって、私たち自身が築かざるを得なかったものなのです。つまり、私たちは壁しかもっていなかった。つまり、私の時間、いまこの瞬間は、時間をもたないものたちによって決定されている。つまり、私たちと彼らをつなぐ、距離も時間も存在しないということです。そして、私たちは自らの壁によって、自らのやわらかい壁によって滅ぼされていく。まるで、過剰進化した生物のように。なんという結論でしょう……

34 14時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

飛行音が聞こえなくなっている。と、台所からありすの声。

ありす
おっ? あ、電気点いたね。こんなに長い停電、珍しいな……パソコン? ……うん、だってまさか電源落ちるなんて思わないもん、まあしゃあねえですよっ、幸い何ページも進んでなかったし……いや、幸いじゃないけどもねっ。もしもし? あっちゃん、もしもし? 聞こえてる? ……え? はいはい……なんかぶつぶつ切れるねえ……なに? ……いや、わかんないけど……え、よく聞こえないっ……いや? 別に? W……もすぃもすぃ? ……なによ? ……変わったこと? んのこと? ……え? いやいや、ぜんぜん普通だけど……あのさ、あっちゃん、よく聞こえないのですよっ……あっちゃん、あっちゃん? ……あのさ、悪いけど電波もうちょい繋がる場所で、かけ直してくんないかね? ……おーい、あっちゃーん……

ありすは携帯を眺めつつ。

ありす
……あっちゃんめ。こりゃ絶対どっか遊びに出かけてんな……

間。ありすは再び、携帯電話をかける。やがて……

ありす
(留守電に)……もしもし、ありすです。安岡さん……何度か電話してるのですが、ええっと……怒ってますか?……あのう、どうか機嫌直して……連絡をくださいっ、よろしくお願いしますっ。

携帯を置いた。ふう、と、息を吐いて気合を入れてパソコンに向かい、キーボードをカタカタと叩いた。

ありす
……

今までにない真剣な表情でパソコンにかぶりつくように文章を打ち込んでいるが、やがて動きが止まった。

ありす
なんかあ……なんかお腹、すいたなあ

と、つぶやくが、再び手が動かす。ややあって再び動きが止まった。

ありす
ま……ピザでも頼むか

携帯でピザの注文をするが、繋がらない。

ありす
……?

首を捻りつつ、別の店に電話するが、やはり繋がらない。

ありす
おいおい、ピザーラもピザハットも何で出ないっ……お休みか?

もう一度チャレンジ。

ありす
……頼むよ、やっててね。ドミノ君

やはり応答がない。

ありす
ああ、君んちもダメだったかあっ……どうせいっちゅうのよっ!

携帯を放り出した。

ありす
……しょうがない、ファミマ行くかあ

立ち上がり、部屋を出て寝室へ。ややあって、外出用の上着と買い物バッグを持って戻ってくる。そしてパソコンを上書きし、スリープモードにして、出かけようとしたちょうどその時、携帯が鳴った。通話表示を確認し、躊躇しつつ通話ボタンを押す。

ありす
はいはい……なに?
かま猫
こちらは猫の第六事務所です
ありす
知ってるわよっ
かま猫
かま猫であります
ありす
だから知ってるってっ
かま猫
あのそれは……私のことを、認知していただけたわけですか?
ありす
そういうことじゃないけどさ……なにか用なの?
かま猫
はい……あのう、じつは大変言い辛いのではありますが
ありす
なんなの? さっさと言いなさいな
かま猫
じつは……思ったより、てこずっておりまして。そのう……なかなか順番が回ってこないのです
ありす
順番? なんの?
かま猫
お迎えの……であります
ありす
あ? ……ああ、ああ……あれか
かま猫
すみません、私の不徳の致すところでして……そのう……
ありす
あ、いいよいいよ、こっちはなんも気にしてないし……無理しなくていいよ
かま猫
そうはいきません、これはあなたの命に関わることでありますから、責任重大な仕事なのです
ありす
なんかさあ、そういう言い回しが胡散臭いんだよね……大袈裟でっ
かま猫
僕が未熟者なのです……頑張ろうとすればするほど、みんな、僕を煙たがって……うまくいきません
ありす
……ああ、まあねえ、うん……まあ、そうか、そういうの、よくあるよね。わかるわかる
かま猫
わかりますか?
ありす
どんな仕事もそうだよ、しょうがないよ
かま猫
うちはとくに、上下関係が厳しいのでやっかいです……でもちゃんとやりますからっ……失望しないでほしいのですっ! 信用してくださいっ!
ありす
なんか、めんどくさい話になってきたなあ……
かま猫
とにかく今、あなたの席を確保するために奮闘中でありますので、もうしばらく自宅で待機をお願いします
ありす
待機? なにそれ? いつまでよっ
かま猫
さあ、それは……僕にもわかりません。一時間くらいか一日かかるか、それよりも長いか……なんともいえないのです
ありす
馬鹿馬鹿しいったらないわ……つきあってらんないっ。もう切るわよ? いい? 私、これから出かけるから
かま猫
出かける? いやダメです! あなたは家で待機をしていなければなりません!
ありす
ちょっとコンビニへ弁当買いに行くだけだよ
かま猫
いけません!
ありす
……すぐに帰ってくるけど?
かま猫
家にいてください
ありす
なんなの? それは命令なの?
かま猫
……命令です
ありす
あんたね!
かま猫
いや、あの……すみません、その……なんというか、ええと……命令ではなくて……あ! そうっ、義務です、義務なんです
ありす
は?
かま猫
自宅待機は義務なのであります。国民のっ、戦時下での義務であります。守らなければあなたはっ……非国民でありますっ
ありす
いつの時代だよっ
かま猫
いいからっ。ええと、よろしいですかっ……とにかくっ、私がよしと言うまで一歩もっ、一歩たりともっ、家から出てはなりませんっ
ありす
ご飯は?……ご飯どうすんのよっ
かま猫
知りませんよっ、自分で考えてくださいっ
ありす
考えろったって食べ物がなきゃ買ってくるしかないじゃん
かま猫
……冷蔵庫になにかあるでしょう? それでなにかこしらえてくださいっ
ありす
私、料理できないもん……ついでに言うけど
かま猫
……なんですか
ありす
包丁は怖くて持ったことないし……それに、うちの冷蔵庫に入ってんの、ビールだけだもんね、わはは
かま猫
あなたはっ!……あなたはそれでもヤマトナデシコでありますかっ!
ありす
ヤマト……なんだって?
かま猫
……いや、なんでもありません。ついはずみで失礼を申し上げました
ありす
……?

間。

かま猫
……ひとつだけ、ご忠告申し上げますが
ありす
なによ、あらたまって?
かま猫
あなたは認識を改めたほうがよいかと思います
ありす
認識? なんの?
かま猫
今の状況は、あなたが考えるよりも、もっともっと……酷いのです。あなたの認識では、到底生き残れません。外へ出ることがどれだけ危険な行為なのか、ご理解ください。今は戦時下です、腹が減ったくらいでなんですか、食べるものがなければ、我慢するべきであります。善意ある国民は皆、我慢しているのです。欲しがりません勝つまでは、であります。国民が一致団結しなければ、この国は滅びるでありましょう
ありす
ちょっとあんた、さっきからなんの話してるのよっ
かま猫
私はただ一般論を話しているにすぎません。ご理解のうえ、私に従ってください、お解りいただけましたか?
ありす
解るわけないでしょっ! なんで私があんたに従わなくちゃなんないのよっ!
かま猫
あなたのためなのです、ひいてはそれが……お国のためでもあるのです
ありす
私はっ、私のために生きてんのよっ! 国なんか関係ありません! 私の自由でしょ
かま猫
非常事態なのですよ
ありす
知ったこっちゃないわよ!
かま猫
……聞き分けのない方ですねえ
ありす
なんだって?
かま猫
仕方がありません……あまり手荒なことはしたくなかったのですが……
ありす
なによ! 脅してるの? ふふん上等だわ、そんなのちっとも怖かないわよっ、馬鹿っ!
かま猫
あのう……すぐ終わりますので、そのまましばらくお待ちください
ありす
なによっ、え? なにが終わるって? さっきから言ってることが全然わかんないのよっ! ちゃんと説明をしなさいっ! 一方的に言われても困るのよっ、だからちゃんと……説明責任っていうかさ……そういう……ことをさ……
かま猫
……
ありす
……だから……ちゃんと……え?……なにこれ?
かま猫
……
ありす
……これ……なんの音?
かま猫
大丈夫です、ただちに人体には影響ありません……すぐに済みます……気持ちを落ち着かせるための、ただそれだけのための……処置でありますから、なにも怖くはありません、最新の技術であります
ありす
ああ……そうですか
かま猫
……あんまり、手間をかけさせないでください。私の勤務評価、落ちちゃいますので、これからもよろしいですね
ありす
……ああはい……わかりました……よろしく……お願いします
かま猫
よろしいでしょう……では、お迎えがくるまで外に出てはいけません、わかりましたね、これはあなたのためなのですから
ありす
うん? あ、ああ……そうね、わかりました……我慢して、待ってるわ
かま猫
では……誠実に国民の義務を果たしてください
ありす
……うん、なんか、よくわかんないけど……がんばるわ
かま猫
また……電話します

かま猫が通話を切ったようである。ボーっとしているありす。ゆっくりと携帯電話を耳から離した。

ありす
……あれ? 私……なにしようとしてたんだっけ

暗転。



35 14時21分(秘稿のあとさき)

障子に映っている人影が動く。

 余は、食には興味がない。生きるには、食べなきゃならないので、食べる。それだけだ。とびきり美味しい料理を食べるために、あちこち食べ歩く。そんなことはしたくない。旬の料理の素材だの、季節に合った料理など、考えたくない。どれも同じである。時間の無駄だ。時間の浪費だ。
 余は一度決めた店、一度決めた料理を食べ続ける。そして、さっさと立ち去る。
 店にだって、そういう客が好ましいだろう。余にも好ましいのである。ウインウインの関係だとはこのことだ。
 このあいだ、こんなことがあった。
 店によって、余の指定席がある。余の心のなかだけで決めている。そのとき、その店は、がらがらだったが、たまたまその指定席に客がいた。
「今日は、客がいっぱいのようですな」
と余はいって、引き上げた。
 いろいろとめんどくさい男だ。だが、これが余なのだ。

36 14時46分(やわらかい壁 ~カニス氏の1日)

 部屋は、燃え上がっているかのように真っ赤に染まっている。
 激しい雨音。
 そのなかを、モーツァルトの交響曲39番が大音量で流れている。
 
 カニス氏とハクチョウが、少し距離をおいて並んで椅子に座っている。
 カニス氏はアールグレイベースのチャイを飲んでいる。ハクチョウは大きなお皿で水を飲んでいる。

 部屋は、片付くどころか、更に荒れている。
 散らかる衣服も増えているよう。
 分解されたジューサーや、ラジカセも散乱している。
 ある時間が、絶望もふくめたある時間が流れたのでしょうか。
 まるで、嵐に襲われたよう。
 あるいは、あの日のよう……

 緊張した時間がつづくなか、ふたりはティータイムを過ごしている。

カニス氏
いつまで、雨は降りつづくのでしょうね。まるで、冷やそうとしているかのようですね。冷やしつづけようとしているようですね。いつまで、つづけるのでしょうね。

 雨音は激しい。

カニス氏
北へ、北へ向かうというのはどうでしょうか。何も覚えていませんが、樺太を見るのも悪くないかもしれませんね。覚えていませんから、望郷の念などはないのですが、それでも、それでもね、悪くないかもしれませんね。……ここを出られたらの話ですが。

 突然、電話が鳴る。
 ゆっくりと受話器をとるカニス氏。

カニス氏
はい、もしもし、もしもし、もしもし……

 カニス氏は、しばらく黙っていたが、

カニス氏
もしもし、もしもし、もしもし……

 静かに受話器を置くカニス氏。

カニス氏
またです。またですね。何でしょうね。誰でしょうか。無言です。また無言でした。そう、聞こえてくるのは、水の音。水がわいてくる音。ただ、それだけです。美しい水の音、ただそれだけです。美しい水が湧きでる音。やはり、冷やそうとしているのでしょうかね。……猫は、猫たちはどこへ行ったのでしょう。

 ふいに、カニス氏は真鍮製の置時計をのぞきこむ。

カニス氏
まもなく、2時46分です。

 突然、人を一瞬にして不安にさせる、あのウィウィウィという緊急警戒警報が鳴り響く。
 それでも、ティータイムをつづけるカニス氏とハクチョウ。

カニス氏
あの日、あの11日に、あなたは何をしていましたか? 2時46分になりますとね、そんなことを思うのです。ええ、毎日です。毎日2時46分です。異常に思われるでしょう。でもですね、この窓からの景色が、忘れさせてくれないのです。

 積み上がりつづける、放射性廃棄物を詰めた黒いパックの山の映像が、浮かび上がる。
 部屋いっぱいに積み上げられたよう。

カニス氏
安心を求めて、人は忘れようとします。収束だ、復興だのという空気を根気よくつくりながら。でも、現実はまったく逆の方向へ進んでいます。それは、未来の前借をしているようです。この窓からの光景は、そう、未来が貪り食われている姿なのです。

 家のチャイムが鳴る。
 まるであの日のような陰惨な部屋に、ヘルパーが入ってくる。(その姿は、カニス氏以外、誰にも見えない)

カニス氏
ああ、ありがとう。そりは、キッチンに置いておいてください。そのままでいいです。はい、そのまま置いておいてくれれば。ああ、そうです、そうでした、あなたにまたひとつ頼まれ事を引き受けていただきたいのですがね。モーツァルトのCDをね、モーツァルトの交響曲第39番のCDをですね、ちょっと買ってきてほしいのです。はい、39番です。いえ、私ではないのです。私ではなくてね、妻がね、妻がそれを聴きたいと。ええ、モーツァルトをね。知りませんでした。モーツァルトが好きだったとは。あっ、それから、ウサギ、ウサギもお願いします。えっ? 本物ではないですよ。病院に、本物のウサギをもっていけるわけないじゃないですか。ぬいぐるみですよ。ええ、これも知りませんでした。ええ、ええ、小さいものでかまいません。キャラクター物でなくていいです。はい、ごくありふれたものでいいと思いますよ。お願いします。いえ、急ぎではないです。もしかしたら、無駄になってしまうかもしれませんが、とりあえず、お願いしますよ。ええ、はい、はい、それでは・・・・・・

 ヘルパー、帰っていく。(その姿は見えない)

 またしても、チャイムが鳴る。
 訪問看護師が入ってくる。(その姿は、やはり見えない)

カニス氏
ええ、変わりありませんよ。来ていただいたのに申し訳ないのですが、今日はお休みということにしていただけないでしょうか。ちょっと、気もちがね、気もちがですね、急にいろいろなことがありましたものですから、ええ、いろいろとね、ええ、ええ、ちょっとリハビリにも気が入らないと思うのです。そうなると、危ないじゃないですか。はい、そういった訳で、申し訳ないのですが、ええ、妻が、妻がね、ちょっと。ええ、連絡します。また連絡します。はい、大丈夫ですよ。ありがとう。はい、ではまた。

 訪問看護師、帰っていく。(その姿は、だれにも見えない)

 その後も、チャイムは鳴りつづけ、見えない人たちが出入りしていく。

 部屋のなかは、あの日の、あの3.11の光景で埋め尽くされている。
 地震、津波、火災、原発事故、絶望の人々、大きな悲しみの世界……。
 モーツァルトの交響曲39番の大音響のなか。
 降りつづける激しい雨のなか。
 
 カニス氏とハクチョウのティータイムは、時が止まったようにつづいている。

 ふいに立ち上がるカニス氏。

カニス氏
ちょっと、何かつまみましょうか。

 キッチンへドタドタとゆっくり歩いていくカニス氏。
 サラダをもって帰ってくる。
 食べはじめる、ふたり。

カニス氏
最近、食べるものが美味しいと思いませんか? ああ、それは人間に限った話かもしれないですね。そう、美味しいのですよ、食べるものが。そのことに、とても感動するのです。それは、それはですね、けっして野菜や肉、魚たちが美味しくなったというのではないのです。変わったのは、私たち人間たちのほうなのです。そんなふうに思うのですよ。それはですね、時間が止まったからなのだと。この疫病の流行で世界が止まりましたでしょう。便利さを求めて、急ぎに急いできた上がるばかりの私たちの生活のスピードがですね、ふいに止められて、からだの感覚を置き去りにしてきたことに気づいたのだと思うのです。少なくとも、止まることによって体は思いだしたと思うのですよ、自らの本来もっていた感覚を。それは、やはりとても感動的なものなのです。おいしくないですか?

 ふたりは、サラダを食べている。
 見えない人たちの行き来はつづく。
 ときに、悲鳴もきこえる。

カニス氏
実際に人と会わなくても苦にならなくなるほどのスピードのなかで、手に入れた快適な私たちの生活。それでも、時が止まり、いざ、誰かに人と会うことを禁じられると、急に体の感覚が蘇る。つまりは、誰かに会いたくなる。食べるものもおいしくなるし、星の放つ光も大きく美しく見える。そうです、食べて排泄するという原始的な体のシステムを捨て去ることができないかぎり、誰にも会わないなどということは、人には耐えられないのです。

 チャイムは鳴りつづけ、そして見えない人たちは出入りをしている。
 悲鳴や赤ん坊の泣き声などもきこえる。
 ときどきカニス氏は、見えない人たちと短い会話を交わしている。

カニス氏
やはりね、私には今回の疫病は、あの日の原発事故による命を脅かす汚染を目に見えるものにしたとしか思えないのですよ。人間たちよ、これで理解したかと、そう言われているように思えてなりません。それでも、人間はまだ気づかない、あるいは気づこうとはしない、あるいはまた気づいていても認めようとしないのか。命より大切なものがあるのでしょうか。私にとって、妻の命以上に守らなければならないものがあるのでしょうか。ねぇ、あなたはあの日、あの11日、何をしていましたか?

 ゆっくりとハクチョウは、伸びをはじめる。
 天に向かって、あるいは北へ向かって。

カニス氏
冗談ではなく、移動しましょうか、北へ。北へ、移動しましょうか。ゆっくりと、ゆっくり、ゆっくりと一緒に移動いたしましょうか。北へ。誰かに会うために。いかがです?

 管楽器のようなけたたましい鳴き声を上げ、片翼だけの羽を広げるハクチョウ。
 雨音はいっそう激しくなり、あの日の自然の叫びは高まり、人々の絶望の声が轟きわたる。
 そして、モーツァルトの交響曲39番が大音量で響く。

カニス氏
会いたいですね。たまらなく会いたいですね……

37 15時53分(秘稿のあとさき)

障子に映っている人影が動く。

 中学のころの友人に、Kがいる。Kの家は代々続く由緒正しい家系だった。
 余の家は文京区春日二丁目に千坪あった。だが、Kの邸宅だって負けていなかった。
 Kは文学好きだった。余は、試しに短編を書いて見せた。ひどく褒められたので、その原稿をKにプレゼントした。
 Kは余と異なり、帝大を出て、順調にエリートコースを駆け登り、国の高級官僚になったと風の便りに聞いた。中学卒業以降、余とKの間には接点はなく、余は、すでにKに興味を失っていた。
 いまから思えば、そのとき、余は、原稿を取り戻せばよかったのだ。大して手間だってかからなかった。Kだって、気楽に応じただろう。ただ、余は、そこまで気が回らなかった。まだ海のものとも山のものともわからない人間が書いた小説である。たいした価値があるとは思えなかった。
 言うまでもなく、文学として価値は、皆無である。ただの習作で、駄作で、愚作である。
 それでも、それは、余が書いた最初の小説なのである。正真正銘の処女作だ。余の出発点と言ってもいい。その一点において、文学的な価値とは別に、尽きない関心を抱く読者もあるだろう。
 実弟への愛にあふれた一作なのだから。

 偏屈で反骨、わがままで気まま、きまぐれ。孤独で、ケチな老人。余のそのイメージはいい。
だが、その原稿は、いけない。
 皮肉やエスプリ、反骨も何もない。魂がこもっていない。薄っぺらで、許すことができない。

 秘稿より、タチが悪いのだ。流出してはならない。

38 17時00分(非日常的な日常におけるネコ騒動)

ありすがものすごい速さでキーボードを叩いている。

ありす
……マラソンをしていると時々、ランナーズ・ハイという、至福の境地に達することがあるわけですが、今の私はなにを隠そう、まさにそんな感じなのであります。脳内のアドレナリンがどんどこ湧き出しております、作家的にいうところの、筆が止まらない状態です。パチンコでいうところのっ、確変レンチャンモード突入しました状態なわけでして……なにかもう、とんでもなく……テンション、まじマックスですっ……この調子であれば、今日中に安岡さんになんとか原稿を渡せそうです

ふと、手を止めて何事か考えている。

ありす
それにしても……もう夕方だというのに

間。

ありす
なぜ……連絡がないの? もしかして安岡さん……交通事故かなにかで意識不明の重体で病院に運ばれたとか?

間。

ありす
……いやいや、まさかね。もし不慮の事故であれば少なくとも、編集部の誰かから連絡がくるでしょう?

間。

ありす
なんで誰からも連絡がこないの?

間。

ありす
そうだ、編集部の番号が確か……(電話をした)

間。

ありす
……なんで誰も出ないのよっ

間。

ありす
なんか……あった?

間。

ありす
やばい、不安になってきた……どうなってんの?……(再び電話をした)……あっちゃんまでっ、やめてよっ、電話出てよっ

間。携帯電話を置いて座り直した。

ありす
日常の中ではよくある……ちょっとした違和感でした。それは、確率の問題なのかもしれません。確率的にめったに起きないことが起きてしまう……そんな違和感です。たとえば、宝くじが当たった……めったにないことですが、日常的にはありえることです。合コンに参加していた男全員から求婚された……めったにないことですが、絶対にないとは言い切れません。この国で戦争が始まる、それも、めったにないことですが、事実日常で起きていたことです。まあ……それらに比べれば、たまたま電話に誰も出ないくらい、よくある日常ではあるのですが……どんな大事件でも、起こってしまえばそれが日常です。違和感に気づかなければ、それを……当たり前の日常として受け入れるだけなのです


黒田オサム 90歳 ~黒田オサム生誕祭90 前口上  二瓶龍彦

(ジンタが、聴こええている)

時は行くゆく、青い地球はまわる。
茶色い戦争ありました。
76年前の今日、広島にピカドン。
時は行くゆく、青い地球はまわる。
2021年8月6日、誰もいない国際的祭典が開かれている、ここクライシス東京。
青い地球は、くしゃみをし、
今宵、夜のサーカスの幕が上がります。
ピエロか、大道芸人か、それともダダイスト? はたまた最後のアナーキストか、そう、永遠のパフォーマー 黒田オサムの90歳をささやかに祝う生誕祭の幕が!

(拍子木)

さあさ、はじまるよ。
寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、
まずは、ちょいと黒田オサムの90年をひもとくところからはじめましょう。

(拍子木)

1931年3月、黒田オサム、足尾銅山鉱毒事件で知られる群馬県は渡良瀬川のほとりで、生を受けます。
黒田オサムは、少年時代の体験をふたつ、プロフィールに自ら書き記しています。
すなわち、川に流され肉屋のヨネちゃんに助けられる。
もうひとつは、二度、空を飛ぼうとして~墜落、二度とも左腕骨折。以後、左腕曲がる。
学業の方は怠り、無口でおとなしすぎ、知能が低いと言われていた少年でありました。
当然、通知表には丙ばかりが並びます。
ところが、小学校2年のときでございます。はじめての甲を図画でもらいます。先生に「おまえは絵だけはうまいな」と言われ、有頂天になったオサム少年はそのとき絵描きになることを決心したのでありました。
そして、そのとき選んだ絵の師匠は、紙芝居屋のヨッちゃんでありました。
やがて、時は茶色い戦争一色の時代へ。
オサム少年も、他の子どもたち同様、皇国少年になっておりました。
お気に入りは、戦闘機。
敵機を見たいばかりに、空襲警報鳴り響くなか空を見上げていると、グラマンが現われ、その美しい姿に見惚れていると、突然、ダダダダダッと足元を掃射されたこともあったとか。
一方で、こんな歌もうたっていました。
♪見よ 東条の禿頭~
戦時下にあっても、子どもは子どもとしてのたくましさをもっているものであります。

(拍子木)

さて、終戦の日の玉音放送について、黒田オサムはこう言っております、
「さすが神さまのお言葉、まるでチンプンカンプンでした」

(拍子木)

戦後、黒田オサムを黒田オサムとして決定づけるのは、山谷でありました。
黒田オサムは言います。
「山谷はボクの芸術大学だった!」
ここでも、黒田さんは絵を描きつづけます。
まるで、ロシア・アヴァンギャルドさながら壁新聞の絵を描いています。
山谷での底辺の暮らしのなかで、自称芸大の音楽教授をはじめとする沢山の人たちと出会い、労働運動、芸術運動に参加していきます。
あるときのこと、群馬の桐生にある大川美術館の館長大川栄二氏が、ある美術誌で現状のアート事情について「パンパン芸術」と称したことがありました。
それを読んだ黒田オサム、「パンパン」を低い存在として蔑視するとはどういうことかと猛抗議。
黒田オサムは、うっすらと涙をうかべて言いました。
「聖と俗はつながっています」

この山谷で、黒田オサムの「ホイト芸」は生まれます。
埼玉の農家に門付けに行き、おにぎりやサツマイモをもらい、土間でデンとひっくり返って踊る、それが黒田オサムのパーフォーマンスの原点であります。
そして、天才的舞踏家ドンちゃんに見出され、パフォーマーの道を歩み始めます。

2000年以降、にわかに海外からの出演オファーが増えました。
まわった国は、ヨーロッパ、アジア、北米、中南米、20ヶ国以上。
今日も、黒田オサムはヘンテコ踊りでもって、この青い地球を歩きつづけます。
絵も踊りも、すべて自我流。
好きな言葉は「自由万歳!」
パフォーマンスとは、何でもありの世界!

(拍子木)

時は行くゆく、青い地球はまわる。
お父さん、お母さん、丈夫な体をありがとう。
時は行くゆく、今日も行く
さあ、90歳を迎えた、黒田オサムの登場だ!

(拍子木)



悲 劇詩 2011=2020  二瓶龍彦

第1部


すべてが崩れ去り 何もなくなった
神隠しにあったように 誰もいなくなった
境界線を失い ここはどこでもなくなった
地獄の後の静けさが 時を止める
そんな場からは いつでも同じ歌がきこえてくる
変則的な三拍子の歌



(何もない、どこでもない位置で、演奏する者たちがいる)

そこには ひとりの道化師しかいることができない
いつものように
そこには

 道化師

 レディース エンド ジェントルマン、エンド おとっつぁん おっかさん。グッドイーブニング、おこんばんわ。ざんす ざんす さいざんす。
 またお会いしましたね。思いだします、あのフィレンツェを、あるいはあのロンドンを。あるいはまたあの広島、あの長崎を。日々、累々と積み上げられる死体の山で、広大な墓地と化してしまったあの町々を。期せずして、ウィルスと核。まさか、今日、それが同時にやってくるとは。はて、そんなところで、そんな時代に、みなさんに楽しんでもらうために、私はどんなダンスを踊ればいいのでしょうね? (死体の山の上でのように、おどけて軽く踊る道化師)
 とはいっても、わたしがそれぞれのそこに現われたことに気づいた人が、今までどれほどいたことでしょう。ある数学者による神の存在証明を思いだします。すなわち、
  私たちが神の存在を信じているとき、神は不在であり
  私たちが神の存在を信じていないとき、神は存在する
 アウシュビッツに収容された人たちの心を思わざるを得ません。
 死体の上でおどけるこの道化師の姿に誰しもが気づいていれば、こんなに私も度々現われる必要もないのですが。悲劇は、自然に繰り返されるのではありません。繰り返された悲劇には、繰り返そうとした誰かがいるのです。いま、悲劇が起こっているとしたら、ここにそれを仕掛けている者がいるということです。
 しかしながら、今回ばかりはそろそろ答えを出したいところでございますね。せめて、千年は揺るぎない答えを。
 さあ、問うてください、自らに。自らに問いましょう、累々と積み上げられていくこの死体の山の上で。
「あなたが、いま一番欲しいものは何ですか?」

*

 わたしのいる場所は
 わたしがいられない場所によって
 決められます

*

 資本主義の象徴が 20世紀とともに崩れ去っていく瞬間を
 メディアが世界に 21世紀の開幕イベントとして垂れ流しつづける2001年9月11日
 世界各地で上がる 悲鳴と歓声

   鳳仙花は 種を 弾丸のようにまき散らします

 暴力は 連鎖
 テロルは 連鎖
 20世紀は円熟し
 まるでゲーム中毒にかかった
 日々 体臭がきつくなるばかりの中学生のように
 これまでの戦争の最低のルールも見失い
 命を数字に置き換え 奪い合う
 リセットボタンは 現実では作動しないことは知っていても 同時に自分だけはリセット可能だと信じている
 ハーグの国際法廷で 世界で唯一テロ国家と認定されたアメリカが
 直接 テロ攻撃を受ける
 そして アメリカは対テロ戦争をはじめる
 幼稚な作戦名とともに
 莫大な命のコストのかかる 古いやり方で
 世界は 映画を観るように その光景に悲鳴を あるいは歓声を上げる

   鳳仙花は 種を 弾丸のようにまき散らします

 私の友人が 私の別の友人を殺し
 遺族だけが 連鎖が起きないことを祈り

 20世紀は 悦楽のなかで自らを殺すために
 私の友人同士に 殺し合いをさせる

   鳳仙花は 我慢ができません
   我慢できずに 種を 弾丸のようにまき散らします

*

 祈りの時・序

 この戦争は、負けるわ。
 いつ?
 100年後に。
 それまでは?
 戦争はつづく。
 100年も?
 そう、100年も。

 地平線をひとりの少年が歩いている。
 ママの名を捨てた、ひとりの少年。
 鉄の帽子をかぶり。
 ママは、タンバリンを叩くが、踊れない。
 白い月と赤いタチアオイのあいだで。

 この戦争は、負けるわ。
 世界は?
 世界、人間、そしてこの星、100年の戦争で滅びていく順番に並べなさい。
 滅びるの?
 天使は、死者たちだって知ってた?

 白い帽子に、白いマスクをした少女が、無色の水平線を見つめている。
 世界の終わりの姿を見せている場所から、少女が無職の水平線を。
 そのとき、ママは少女を抱きかかえ、走った。
 走った……、走った……、走った……
 ここではない場所へ。
 無色の水平線が消える先まで。

 この戦争は、負けるわ。
 どうして?
 敵がいないから。
 じゃあ、だれと戦ってるの? どこに爆弾を落としてるの?
 亡霊。
 亡霊と?
 5万年の亡霊。

 地平線と水平線が虹のように、同時に弧を描く時刻。
 ママの名を捨てた少年と白いマスクの少女は出会った。
 そのとき、口琴の音がきこえたでしょうか。
 言葉をはじくような、星のきらめきをはじくような、そんな口琴の音が、きこえたでしょうか。
 天使たちの口琴。
 白い帽子の少女は、鉄の帽子をかぶった少年に声をかける。
 この戦争は、負けるわ。
 少年はこたえる。
 君には、僕が見える?
 あなたは、亡霊ではないわ。
 少年は、ゆっくりと手を広げた。
 少女は、その手のなかで少年を抱きしめ、そして耳元でささやいた。
 天使は、死者たちだって知ってた?
 2115年冬、世界の荒廃は終わった。
 亡霊は消えた。
 星が生まれるところから、静かに光がさしこみはじめた。
 祈りの時が、はじまる。

*

「もう少しだけ、ここにいさせてほしい」
「いえ、私は一瞬たりともあなたがここにいることに耐えられないの」

*

 人は なかなか終わったことを認めることができない
 終わったのだ 20世紀は
 1989年のベルリンの壁崩壊で 20世紀は終わった
 その後 世界の地図がどのように書き換えられようとも 20世紀はあのとき終わった
 20世紀的価値観の世界は 没した
 響きわたった 悲鳴と歓声
 それからの混迷の時を 世紀末と呼んでもかまわない
 恥ずかしいことに 2021年 それはいまだにつづいているけれど
 
   鳳仙花は 種を弾丸のようにまき散らします
   鳳仙花は 我慢できない
   女が その紅で爪を染める前に
   地球は 身震いをする

*

音楽の時間

*

 シグナル ~He is still alive

 心臓のない詩人の宝物が
 ウィーンでつくられた72色の色鉛筆だった頃
 光は いつも青く ただ 青く降りそそぎ
 馬も 風も 言葉も みな青く
 そこには だれもいなかった
 心臓のない詩人には
 72色の色鉛筆だけが 世界のすべてだった
 心臓のない詩人は72の言葉と技術を手に入れた
 そして 見えない「あなた」に愛を語りつづけた

 あのカーネルサンダースが立っているあたりから
 街は 少しづつ砂漠になっていく
 青い砂漠には ラクダの骨がころがり
 夜の巨大な水銀灯が やはり青くそれを照らす
 月も星も遠く 太陽は薄ぼんやりと
 足から腐っていく詩人は いつもそこに立っていた
 少しづつ 身につけていたものを捨てて
 いま 足の腐っていく詩人は
 自らのカラダを腐らせていく
 イーランの黄金の壺のなかに
 祖国と宇宙の時間軸をそろえることを夢み
 そして 見えない「わたくし」に数字のみを与えた

 自分で描いた画の人物たちの顔を 次々と黒く塗りつぶしていった
 あの画家の名前は 何といったでしょうか
 そう 彼はクラクフの画家でした
 描く人物の顔と名前を消していった画家
 自分の名前も 消してしまったか
 砂漠で 青く光るのは 虫たちでしょうか
 それとも 彼に降りそそぐ 光だったのでしょうか
 それとも ただのシグナルだったのでしょうか
 そう ただのシグナル
 He is still alive
 He is still alive

 最後の記憶をつくりましょう
 He is still alive
 He is still alive

*

 道化師

 人間は、空から人間の思いを降らす。
 民主主義と称した広大な墓地をつくるために
 ひとりのエメラルドグリーンの瞳をした少女が閉じこめられている
 あの塔の窓から降りそそぐものは、いったい何かしら。
 砂漠にも、海辺にも増えつづける、隔離の塔。

 まだ答えは、出ない?
「あなたは、いま何が一番欲しいの?」

 窓は開いたままだというのに。

第2部

 時は 垂直に裂かれ
 その前と後ろは まるで別世界と化す
 残酷な とりかえしのつかない時を裂く垂直線

 午後2時46分
 北緯38度6分 東経142度51.6分 深さ24km
   鳳仙花は クラスター爆弾のように 種をまき
  地球は 揺れた

 午後3時
 引き波を確認
 次々と津波が到達する
   鳳仙花は がまんができない
  海は 垂直に立ちあがる
    
 午後3時35分
 壁の発生
 それは 水の壁
 黒い水の壁
 突如 目の前にあらわれた
 巨大な
 垂直の 黒い水の壁

 午後3時35分
 崩れる
 崩れる黒い水の壁
 子どもたちを飲みこむ
 崩れる
 垂直の 黒い水の壁

 午後3時35分
 時は 垂直に裂かれ
 その瞬間の姿を 永遠に定着させ
 時は止まる

 やがて 時のめまいのなかで 捜索隊が声を冷たい風にのせはじめる
 「あがったよー!」
 雪まじりの夜の白い雨が
 黒い壁を生みだした大きな河を 横殴りに走る

 「あがったよー!」
 おさえつけた怒声のような声が 風に運ばれる
 つづけて 子どもたちの名前がよばれる
 つづけて 子どもたちの名前がよばれる
 つづけて 子どもたちの名前がよばれる
 つづけて 子どもたちの名前が

 「あがったよー!」
 「あがったよー!」
 「あがったよー!」
 雨は 氷の槍となる

 翌朝 橋のたもとに並べられた
 色を失った泥のランドセルを
 クチバシの割れたイヌワシが 茶色い視線で見つめている

 垂直に裂かれた時の
 こちら側と向こう側に立つ
 子どもたち

 町はそれぞれ 数百人レベルのモルグを用意しなければならない

*

 その人は 種を運ぶ
 流されてしまった ひまわりの種を運ぶ
 子どもたちの数と同じだけの ひまわりの種を

 夏になれば 子どもたちの笑顔のように
 太陽に向かって花を広げるでしょう
 そして 毎年 ひとつづつ年をとっていくでしょう

 種を運んだ人のことは 誰も知らない

*

 チェルノブイリがそうであったように、原発事故をはじめとする核被害において、住民の避難範囲は汚染量や健康被害への影響で決まるのではない。その決定は。予算で決まるのです。そこに、原発マネーや核兵器などへの思惑も加わり、実情は国家の都合で隠蔽され、住民の救済の手は片手間に行なわれる。メルトスルーまでいった福島第一原子力発電所の事故は、隠蔽の前例を忠実に踏襲するだけでなく、国際的な安全基準まで変え、現実を告発する者は風評被害の名のもとに払拭し、国民の分断をうながしながら、収束を高らかに謳い、記憶の風化を待つ。墓堀業者たちは、肥えていく。

 ある劇場の女性芸術監督は、こう言いました。
「言葉で書かれた詩は、私は好きじゃないの」

 ある昆虫学者は、地球に住む昆虫の種類と無限とも思えるその数をあげて、当然のようにこう言います。
「この星は、虫の星です。この星の主は、虫です」

 空を黒く描く版画家は、海も大地も黒く描きます。
 水平線も、地平線も、黒のなかに消え、眼球だけが気球のように漂います。

 さあ、四本の蝋燭に火を灯しましょう。
 はたして、蝋燭は1本足りないのか、それとも1本多いのか。

 雨は降り、風が吹きぬけ、そして陽が照りつける。
 そうやって、花々は季節をめぐり、
 いまも、それをつづけようとしている。
 たとえ、地下水が汚されていたとしても。

 また同じ喜劇がはじまっています。
 政治家は、
 汚染されたカイワレ大根を食べ、
 汚染された瓦礫を燃やす焼却炉に立ち合い、一ヶ月後に命を落とし、
 汚染された街をめぐり、流産し、
 それでも、子どもたちを、アスリートたちを、
 汚染された大地に立たせ、
 復興の旗をふらせる。
 みな、踊り、踊らされ、
 また同じ喜劇がはじまる。

 何を守っているのでしょう。
 政治家が、国民の命に関心をもったことは、いまだかつて一度もない。
 もちろん、国民の命を守ったことなど。
 国民の命が兵器になるとき以外は。

 計画被曝って、知ってる? 原発施設従事者に与えられた業務上の義務の言葉、あるいは数字。
 その話を劇場の女性芸術監督に話したら、「詩的な言葉ね」とかえってきました。

 雨が降り、風が吹きぬけ、陽が照りつけるあいだに
 エメラルドグリーンの瞳の子どもたちは、残り時間を数えます。

*

扉が開かれる時間

*

 命の約束

 赤い瞳の少女よ
 だれと どんな約束をしてきたの?
 赤い瞳の少年よ
 だれと どんな約束をしていくの?

 首に包帯を巻いた少女よ
 華奢なその首に刺さったメスに刻印された赤は 約束を果たしただれかの証?
 首に包帯を巻いた少年よ
 ベッドの上であなたを照らした幾条かの銀色の光の束は だれかの約束の鏡?

 壁の色を教えて
 かつて 左に15度傾いていたオリーブの木
 子どもたちと同じ角度で傾いていたオリーブの木
 わたしは だれかと約束をした
 壁の色を教えて
 今 あなたは バラライカを弾いている?
 それとも 天球儀をまわしてる?
 それとも 木馬の上で眠ってる?
 それとも 心臓の重さをはかられている?
 それとも それとも それとも・・・・・・
 壁の色を教えて
 あなたの世界の色を教えて
 教えて オリーブの実は何色?
 わたしは あなたとたしかに約束をした

 言葉だけの希望が差しこむ窓の向こうは シーワ・オアシス
 犠牲の鳥たちが落ちる砂の海の向こうは シーワ・オアシス
 太陽の神とラクダ使いが 月の歌をうたう シーア・オアシス
 リビア砂漠に突如あらわれる そのオアシスの話をしたかしら
 祈りの水をたたえるそのオアシスの話を あなたに

 わたしの瞳の赤が 消えた日
 約束は忘れられ 砂漠からオアシスは消え
 月と木星をつなぐ 赤く染められた絹の糸は切れた
 そして今 あなたたちには見えているでしょう
 あのリビア砂漠に浮かぶ 蜃気楼のようなシーワ・オアシスの町が
 あなたの瞳に 赤が生まれた日
 わたしの瞳から 赤が消えた日
 わたしは 何と引き換えに赤を手放したのか
 あの星は 火星?

 窓から差しこむのは 言葉だけの希望
 キラキラ光る 言葉のかけら
 それらは 月の踊りを知らない
 大地の子守歌さえ 知らない

 赤い瞳の少女よ
 赤い瞳の少年よ
 切りとるためだけの無機質なメスの味を知っている
 首に包帯を巻いた あなたたちよ
 まだ何もつかんでいない あなたたちの小さなてのひらよ

 生まれてしまった 赤
 偽りの約束で消えてしまった 赤
 偽りの約束でも消えない 赤
 罪と偽りの刻印
 言葉を そっと眠らせましょう
 言葉を 砂漠にそびえたつ 窓ひとつない百億の塔へ誘ないましょう
 幽閉された あなたたちよ
 その向こう側には シーワ・オアシスの町
 そこには 赤を溶かす命の泉
 そこでは 命の約束が待っている
 赤い瞳のあなたよ
 首に繃帯を巻いたあなたよ
 隠された 犠牲の鳥よ
 ふたたびオリーブの実をかじる
 約束なしで

*

 たとえば 多民族 多宗教が共存する理想的なコスモポリタン
 ユーゴスラビアが突如瓦解し
 昨日まで優しかったおじさんが 翌朝には隣りの家の子どもを殺しはじめ
 サラエヴォの図書館は、燃えあがる

 記憶が抹殺される。

 その背後に 炎をふきあげながら地中海に沈む アレクサンドリア図書館の残像

 記憶が抹殺される

 水俣では あの忌まわしいチッソの影は消え
 ただただ 祈りの公園が広がる
 広島では その被害を伝える原爆資料館の展示物から その惨さがガス抜きされ
 長崎の神を信じる者たちの頭上に落とされた原爆の悲惨さは 戒厳令下で撤収されていく
 アジア各地で生き血を吸った菊の花の刻印は 数字の問題にすり替えられ
 加害の物語は 被害の物語のなかで消されていく

 記憶が 抹殺される

 抹殺されないために蓄えられてきた記憶が 抹殺される

 あなたは いなかったことにされる
 あなたは いなかった

 福島には 誰もいなかった
 喉を切られた子どもたちなどいなかったし 今もいない

 あなたは いなかった

 東京やハンブルグと同じように ロッテルダムもまた
 空から降る人間の思いにより 焼け野原となった
 戦後 何もなくなったロッテルダムの町は 新しい建築物の実験場となった
 でも 今も新しい物語は 生まれてきてはいない

 すべてが崩れ去り 何もなくなった
 神隠しにあったように 誰もいなくなった
 境界線を失い ここはどこでもなくなった
 それでも それが新しい物語を生みだすための最低の条件

 じっと足元を見た
 何もなかった
 頭をもたげてあらためて周りを見まわした
 何もなかった
 見渡すかぎり 何もなかった
 360度 何もなかった
 何もないところに立っていた
 焦点を合わせることのできない場所に立っていた
 いや、私はいない
 悲鳴も歓声も連れ去られ 記憶も抹殺されたここには
 誰もいない
 私もいない
 あなたもいない
 そのとき そこにいられたのは
 境界線をもたない 人間の思いであり人間の思いではコントロールできない放射能と
 もしかしたら 新たなウィルスもすでに生まれていたのかもしれない
 空を見上げた
 いた
 イヌワシが いた
 イヌワシは 私を見ることができた
 イヌワシは あなたを見ることができた


第3部

 アイダ/アイダ

 ゲントのカフェは
 北国らしく
 とても無口で
 骨にささやく風のなかに
 オランダ語の乾いたシャンソンが
 つつましく聴こえ

 それは
 3.11の前で
 福島の原発事故の前で
 ニューヨークの9.11よりも前で
 それでも チェルノブイリの事故より後で
 もちろん 広島と長崎より後で
 アウシュヴィッツより後で

 それは
 いつでも
 なにかのアイダだったけど
 それでも
 世界には アイダはなくて
 戦争には アイダはなくて
 災害には アイダはなくて
 事故には アイダはなくて
 疫病には アイダはなくて
 それでも
 僕たちは アイダにしかいることができなくて
 いつでも アイダにしか

 ゲントの冬のはじまり
 アメリカ人の音楽家と
 フランス人の舞踏家と
 オランダ人の詩人と
 ドイツ人の歌手と
 ベルギー人の美術家と
 日本人の僕と
 アイダにしかいることのできない僕たちのアイダには
 少し度数の高い赤ワインと

 どこでも
 路面電車は
 川沿いを走りますね
 知っている悲劇と まだ知らない悲劇のアイダで

 昨日と明日のアイダは
 今日ではなくて
 彼と彼女のアイダは
 僕でもなくて あなたでもなくて
 そことあそこのアイダは
 ここではなくて

 でもね
 そのアイダでしか
 生まれることができないから
 言葉も
 音楽も
 ダンスも

 だから
 オランダ語のシャンソンが
 つつましく流れ聴こえてきた
 あのゲントのカフェの
 あのアイダを吹きぬけた
 風のささやきを聴きながら

 だから
 今
 ここで
 遠く重ねられた
 あなたの手と
 僕の手の
 アイダで生まれる
 夢を
 ここで
 今
 生まれる
 あなたの歌と僕の歌の
 アイダで生まれる
 夢を

*

 わたしのいる場所は
 わたしがいられない場所によって
 決められます

*

 地球が身震いをした。
 その上にいる人間は、ふるい落とされる。
 地球が身震いをつづけている。
 大地は揺れ、河は溢れ、山は怒り、天は泣き、地球の体温ははげしく上下動を繰り返す。
 地球が身震いを止めない。
 色のない、匂いのない、健康被害がにわかにあらわれない放射能では気づかない人間が、ふるい落とされていく。
 地球は、人間のことなどには関心を寄せずに、くしゃみをする、
 気持ち悪いから。何かムズムズして不快だから。
 健康な状態に戻ろうとして、地球ははげしく身震いをする。

 淘汰は、ふいに訪れる。
 進化が、ふいに訪れるように。

 存在の本質だけが、ふるい落とされずにむきだしにされて、地球にへばりついている。
 むきだしにされた本質が、直接問われている。
 テロルのように。
 命の本質の危機のなか、問われている。
 あなたは、問われている。
 「何が一番欲しいの?」

 淘汰は、ふいに訪れる。
 進化が、ふいに訪れるように。

 鳳仙花は、地球が身震いするたびに、我慢できずに、種をクラスター爆弾のようにあたりかまわずまき散らしています。
 地球が、鳳仙花で赤く埋められていきます。
 女たちは、爪を赤く染めはじめます。

*

 その列車、つまりあなたの列車は 記憶を積んでいて
 カイロからアレクサンドリアへ向かっているときもあれば
 ロッテルダムからアムステルダムへ向かい、そこで路面電車に乗り換え、
 ルーベンスやゴッホを訪ね、ゴッホは言うほど厚塗りでなくクールだということを雨のなかで知ります。
 ときに、あなたの列車は、北京の歴史の、あるいは支配の三重構造をすりぬけ、魯迅を訪ねたりします。

 チュニスの太陽は、砂のせいではなく、悪夢の予感のようにぼんやり浮かんでいます。
 チョッキ一面に世界中の国旗のバッジをつけたカフェの店員は、「日本のバッジもある」と言って、韓国のバッジをしめします。
 アラファトがいた最後の気配は、やはり楕円形の二重になったぼんやりとした青い太陽の影のなかです。

 そして、今、あなたの記憶の列車は、空爆を受け、粉々に散ってしまった。
 残ったのは、あなたの命の本質だけ。

 飛べ、命よ。
 鳥のように。
 飛べ、命よ。
 祈る人を視ることが、そのまま祈りの行為となるように。
 飛べ、命よ。
 命よ、飛べ!

*

 詩の時間

*

 ディスタンスは 差別を生む
 移動は 地球を汚染する

*

 ハワイ島の草ぶきの家にいるアーティストは
 髪にカラスの羽をさしながら
「今は 家でいい仕事をしなさい」と繰り返す

 骨が 空の自由さを教えてくれる
 地球がくしゃみをして健康を取り戻すと ウィルスが淘汰 あるいは進化の遣いとして人間のもとを訪れ 世界を没落させる
 残るのは、命の本質だけ
 その声に 耳を澄ます

*

 わたしのいる場所は
 わたしがいられない場所によって
 決められます

*

 音楽の時間

*

 道化

「あなたは、何が欲しいですか?」
 声は、きこえたでしょうか?
 そして、答えは出たでしょうか?
 できれば、しばらくはお会いしたくないものです。せめて、千年は。
 では、レディース エンド ジェントルマン、エンド おとっつぁん おっかさん。グッドバイバイ、さいならざんす。

*

 いつもの同じ歌がきこえてくる
 変則的な三拍子の歌
 その歌とともに、すべてはチュニスの太陽のように消える。
 青い太陽が残した、白い砂のヴェールの向こうに未知の世界への新たな道が見えてくることを願って。

「思い出と希望の間には、ひとりの娘がいる。その名は芸術」と言ったのは、W.B.イェーツだったでしょうか。



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